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「ありがとう、いってきます」



その朝の目覚めは、最悪だった。

昨日のアレは本当で、彼は今朝に出て行った。この私が眠れない眠れないと頭を抱えながらも、気付けば死ぬように寝ていた午前4時に。
寝惚けた頭で認識できたのは、隣が空いているベッドとか、狭いリビングが、いつになく広いこととか、水槽の上に置かれた彼の書置き。テーブルの上に置いておくのがセオリーだろうと思っていた私は正直、彼のへそまがりがそんなところにまで感じられて可笑しかった。気分は相変わらず悪いけれど。

「何これ」

最悪だ。彼のくせ字で書かれたそれもやっぱり呪文だった。


『ありがとう、いってきます』


理解できない。どうして彼という人は最後までこんな呪文を私にかけていくのか。ありがとう、いってきます。ただそれだけが真っ白の紙の真ん中に残っている。ありがとう、いってきます。言えばいいじゃん。そんなの私を起こして、直接口で言えばいい。
顔も見せてくれないなんて。声も聴かせてくれないなんて。抱きしめたりキスしたりするのは昨日の夜でもうお仕舞いなんて。

「バっカじゃないの…!」

私はまた、酸欠の金魚になった。涙の中は泳げない。呪文がめぐる。暫く、いなくなるよ。ありがとう、いってきます。

つけっぱなしのモーターが鳴る。煩いくらいに泡の音がする。水槽の中から金魚たちが私を見つめた。

憂鬱な、朝だ。












沈んでいく。ふやけて、ちっとも美味しそうじゃない餌。私は袋に手を突っ込んで、出して、水槽の中に落とすその作業を機械のようにやっていた。

「美味しいの?」

どれだけ待っても答えるはずのない金魚に、私は恨みがましくなって訊いた。彼が昨日気にかけていたのは、あんたたちだけ。八つ当たっても、金魚は何も答えない。知らんぷりとはいい度胸だ。そんなことを考えて、口に出せばただの虚しい独り言と風化するだけなので、黙っていた。

「疲れた…」

廻る時間に、私は何もできなかった。時計の針は午後4時を指している。
話し相手は金魚だけ。答えるのは水槽から聴こえるモーター音とポンプの泡と水の跳ねる音。

数分後に私を呼んだのは、インターホンの音だった。




「はい」
「あら華沙ちゃん。なあに?そんな暗い顔して…彼氏さん、今日は出掛けてるの?」
「はい」
「そうなの。元気?」
「ええ…さあどうでしょう」
「あは!今いないんじゃ、わからないわよねぇ」
「あの、大家さん。今日はどうしたんですか?」
「うん、たいした事じゃないんだけどね。ほらこの前、うちの主人のお友達が海外旅行に行って来たって言ったじゃない?」
「ああ、はい」
「それでお土産をね、たくさんいただいちゃったから…はいこれ、お裾分け!」
「いつもありがとうございます。いいんですか、こんなに」
「いいのよぉ!華沙ちゃんとこは彼氏さんもいるでしょ?二人で食べなさい。すっごく美味しいんだから。本場のフランスパン!」
「ほんとに美味しそうですね。ありがとうございます」
「じゃあ私はこれで」
「ありがとうございました」





扉を閉めて、取り残された。抱えるほどのフランスパンと、自分の中身と上っ面のギャップに改めて気付かされた私。

「どうしよ…こんなに」

彼氏と二人で?

耳に残った大家さんの言葉に、「いなくなりました」なんて独りになってから言い返しても遅い。 一度受けとったものを返すのも失礼だろう。かと言って、

「食べきれないわよ…」

意外にも今日はじめての溜息を玄関で吐いた。






彼がいた。真っ暗な部屋の中で、水槽に取り付けられたライトに照らされた青い彼。
聴こえる音は、彼がいてもいなくても変わらない。モーター音、ポンプの泡音、跳ねる水音。

変わらないのに、私だけが酸欠の金魚になってしまった。


「ああ」

意味もなく口にして、それが悲嘆にくれた色をしていることに苛立った。

ああ、そうだ。彼は言わなかった。暫く、いなくなるよ。の呪文の後には一度も。情事の最中でも聞けなかった。愛してる、とかそんな陳腐な言葉じゃなくてよかったのに。

「ありがとう、いってきます」

何度見ても、何度読み上げても変わらない彼の書き残した呪文。念入りに調べて、探して、それでもやっぱり「すき」の文字はどこにもない。


「暫く、いなくなるよ」

何処に。どうして。暫くってどれくらい。
二人で住んでいた部屋に、視得なくなった。欠けたパーツは愛しい人。

ただそれだけだ。

増えたのは大家さんのくれたフランスパンと、私の悲しみ。

減ったのはいつも私に呪文をかける愛しい彼。















それから半年。















金魚が、死んだ。











「凝縮された“いろいろ”を、涙にこめて流したい。

キミに届けと、大きな声で。」


魚はうたう。溺れるほどの愛を懐かしむ。





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