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金魚が、死んだ。
それもぜんぶ。一匹残らず、水槽の中でお亡くなりに。それはもう清々しいくらいに。
「うそでしょ…」
朝のリビングで、私はまた憂鬱だった。何でいつも、私の周りはこうなんだろう。いきなりにもほどがある。
これはそういうこと、なんだろうか。何かの予兆?蟲、じゃなくて金魚の報せ?
「バっカじゃないの…!」
既視感(デジャヴ)が、気持ち悪い。
人気のない近所の公園の片隅で、私は湿った土を掘る。足元にはビニール袋。
…何匹かの金魚の死骸入り。
深く、深く土を掘る。百円均一の雑貨屋で買った、安っぽいスコップで。深く、深く。ざくざくざくざくザクザクザク。
雨でも降れば泣けるのに、見上げた空は快晴だ。ああ、憂鬱。スコップを動かす手を止めて、私はビニール袋の口を開けた。
さようなら。金魚さんたち。
心の中で、サカナの天国にでも逝けよ、と罵った。
私はもう一度スコップを握って、土を被せる。ああ、憂鬱。金魚たちが見えなくなる。ああ、憂鬱。埋め終わって、口にした。
「いってらっしゃい」
ありがとう、いってきます。
こんな時にまで、彼の呪文が思い出された。まただ。私は呪文にかかってしまった。酸欠の金魚になって、涙の中は泳げないと嘆く。
「ああ」
彼のいない、金魚もいない。暗くて、さびしい部屋に帰ろう。そうだ、水槽もしまわなくちゃ。モーターの音も、ポンプの泡も、跳ねる水もぜんぶ聴こえなくなる。
何もない、私という酸欠の金魚が死にかけているだけの、あの部屋へ帰ろう。
立ち上がった私は、半分投げやりにビニール袋とスコップをゴミ箱に捨てて歩き出した。
水槽を片付け終えてすぐ、私は仕事に出掛けた。が、顔色も悪く、生気の無い私を心優しい上司が気遣って、早退になった。緩い仕事場だ。或いはよほど私が死にそうだったのか。
「なんでかなぁ」
相変わらず暗い部屋に、ひとり私はソファに沈んだ。これから私が発する言葉はすべて独り言になるんだろうか。話しかける金魚すら、私を置いていってしまった。
「ずるいよ」
彼も、金魚たちも。独り言は部屋中に響き渡って、寂しく消えていく。モーター音も、ポンプから出る泡の音も、跳ねる水の音も。聴こえない。無くなった。
無音の、哀しいセカイの中で、私はまた酸欠の金魚。
「暫く、いなくなるよ」
あの日の呪文を思い出す。今朝まで水槽があったその場所に残されていた、書置きを私は肌身離さず持っていた。意味なんてないのに、「ありがとう、いってきます」の呪文だけが書かれたそれを。
「帰って、きてよ」
これだけは言わずにおこうと思っていたのに。堪え切れなくなって、口にしてしまった。
暫く、なんて。もうずっといないじゃない。私を置いて、何処かへ行って、半年だよ。長いよ。帰ってきてよ。手紙も電話もこんなに待ったよ。
「もう…嫌」
酸欠だ。死んでしまう。涙の中は泳げない。
弱い女だ、私は。たかが半年、されど半年?
生きているのか、死んでいるのか。私を嫌いになったのか、あの日私が何かしてしまったのか。
暫く、いなくなるよ
酷いひと。
ありがとう、いってきます
酷いバカ。
それから泣き止みかけた私は、水槽から聴こえる音が無くなった部屋で、新しい音を聴いた。
振り向いた私に、彼は笑う。困ったように悲しそうに、説明できないけれど、とても綺麗な表情で。
「金魚、死んじゃったの?」
呪文が、とけた。私はただ彼に酸素と仕返しを求めて、ごめんね、おかえりなさい。たった一度の呪文を言った。
意味もなくて、わからない愛情の水たまりを魚はみつけた。
不思議な色で、不思議な深さにキミを思う。
「酸素があった。キミがいた。僕はどうやら生きている」
最後に魚は満足にうたった。泳いでゆけるキミを愛して。
Fin…