瞼が重たい。疲れて、気づかないうちに眠ってしまったのか。冷たい風が頬にぶつかった。もう夕方かもしれない、ぼんやり考えて、瞼を押し上げる。視界に飛び込んできたのは、鹿垣さんの姿だった。


「お目覚めですか」


鹿垣さんの瞼がどことなく腫れぼったくみえる。泣いたのか。
ということは、


「お伝えしなくてはならないことがあります」


そうか。もう夢から覚めたのだ。


「奥様が…お亡くなりになられました」


これが、ぼくが眠る前にみた現実。鹿垣さんは本当に辛そうに顔をゆがめて、ぼくの手を握った。
だいじょうぶだよ、ぼくは知っているから、だいじょうぶなんだ。そう言いそうになって、開きかけた口を閉ざす。深く息を吸い込んで、ゆっくりと吐き出した。


「ねえ、鹿垣さん。…父様は……?」


鹿垣さんは目を見開いて驚いていた。それから眸を伏せ、何か迷っている風に唇をきつく結ぶ。
ぼくが辛抱強く鹿垣さんの返事を待っていると、鹿垣さんは困った風に笑って、唇を動かした。


「とりあえず、屋敷の中に入りましょう。もう日も落ちて随分冷えてきましたから」


辺りが暗くなっていることに、ぼくはその時やっと気づいた。






鹿垣さんに連れられて屋敷へ戻ると、知らない大人がたくさん出入りしていた。皆一様にスーツを着ている。何人かはどこかで見たことのある顔だった。


「本家の下働きの方々です。何人かは王星グループの社員もいらっしゃっているようで。恐らくは御当主様のご意向でしょう。彼らは御当主様の秘書だと思われます」


鹿垣さんがぼくの前を歩きながら言った。


「お祖父様の?…何故ですか?」


ぼくの問いには答えず、鹿垣さんはぼくの部屋の扉を開けて、中に入るようにうながす。中に入ると、鹿垣さんは部屋の鍵をかけた。


「御当主様は奥様を目の敵にしていらっしゃいましたから。とにかく都合の良いように状況を動かすおつもりなんでしょう。病死は病死なんだから、あの方の秘書の出る幕なんてまったくありませんが」


早口でそう言うと、鹿垣さんはぼくをみて、困った顔をした。


「すみません。本家の息のかかった方々にこういった話を聞かれると、シガキの首がとびかねませんので」


そういえば、さっきから鹿垣さんは声を抑えて喋っている。


「ああ…はい。そういうことですか…すみません、気が回らなくて」
「いえいえ、坊ちゃんにお気遣いいただくほどではございません」


どうぞ、ご自分の部屋ですから自然になさってください。と鹿垣さんに言われるまま、ぼくは自分のベッドに腰掛けた。


「鹿垣さん、隣にどうぞ」


ぼくが自分の脇を示すと、鹿垣さんは首を振った。


「私は使用人ですから、坊ちゃんのお隣には座れません。椅子をお借りしてもよろしいですか?」
「あ、はい。どうぞ」


鹿垣さんは勉強机の椅子を引っ張って向きを変え、ぼくの正面に腰掛けた。


「それで、先程の話の続きですが…。実は…旦那様から伝言を預かっているのです」


ぼくはどう反応すればいいのかわからなかった。父さんはぼくと会ったことを鹿垣さんに言っているだろうか。ここで自分から、父さんと会っていると正直に告げるべきなのだろうか。あのときのことは、鹿垣さんには言わない方がいいはずだ。それなら会っていることも言わない方がいいのかな。どうしよう。


「セイ様、旦那様にお会いできたようですね」
「あ、…はい。……え、」


セイ様って、今。


「え、え…っ?その、呼び方は…」


驚いて鹿垣さんの顔をまっすぐ見る。鹿垣さんが遠慮がちに微笑んでいた。


「これは伝言のうちのひとつ、です。奥様が、旦那様に仰ったそうで」


鹿垣さんの様子をみるに、たぶん、父さんが母様の最期をみとった事はそのまま伝わっている。
でも父さんのあの行動は、ぼくしか知らない。でなければ鹿垣さんは穏やかな表情でこんな話をしない。
鹿垣さんはゆっくりと言葉を紡いだ。


「本当の名前を呼んであげるように、と。ふたりの美しい青だから。空と海のふたつの意味の青だから、と」


ぼくは瞼をとじた。もう泣いてはいけない。泣かない。
母様は本当にそんなことを言っただろうか。あのとき、父さんと母様の会話は聞こえなかった。もしかしたら、父さんが気を遣ってそんな風に言い残したのかもしれない。優しい嘘かもしれない。けれどそれでもよかった。それでもいいんだ。だってそうでしょう?もしかしたら、ぜんぶ本当かもしれないんだから。
鹿垣さんは瞼をとじたままのぼくに向かって、言葉を続けた。


「それから、セイ様にあてた手紙があります。ご自分で読まれますか?」
「いえ、…読んでもらってもいいですか」
「わかりました」


鹿垣さんが紙を広げる乾いた音が聞こえた。


「『ふたりの美しい青へ。』」


「『挨拶もしないままに、ごめん』」


含みのある言葉だ。ぼくが母様と向き合う前に父さんが連れていってしまったことを謝っているんだろうか。それとも父さん自身が知らぬ間に立ち去ったことだろうか。
ただの予想でしかないけれど、ぼくには前者の意味が強いように感じた。もちろん後者の意味も含まれているだろう。
でも謝るくらいならぼくを待ってくれれば良かったのに。そういう勝手なところが父さんらしい。


「『もう、籠に囚われた青い鳥ではなくなったけれど、この先もお前は苦労するかもしれない。
でも青は独りじゃないみたいだから、大丈夫だろうと勝手に思っているんだ。
シガキもいるし、それに今朝、街でヒロタカくんに会った。
素晴らしい先生だね。私も随分と叱られたよ。
それから、ヒロタカくんと一緒にいた、カグヤくんという子。まっすぐな瞳をしていて、とてもいい子だ。
この先も大切にしなさい。青自身をみて、愛して、守ってくれる人たちだ。
ふたりのお陰で、私は青とあの人に会うことができた。
観沙の家に代々つたわる決まり文句を、今なら素直に口にできるよ。
「アルデバランのめぐりあわせに私は感謝している。」
それでは、また会う日まで。愛しい我が子に、幸運の星の加護がありますよう。』」


ぼくが目を開けて鹿垣さんを見つめると、鹿垣さんは紙を折りたたんで封筒に戻し、ぼくへ差し出した。


「これが旦那様からのお手紙です。お受け取りください」


手を伸ばして、封筒を受け取る。とても軽い、紙の感触だった。


「短い内容でしたね」


ぼくがそう言って苦笑すると、鹿垣さんも笑った。


「そうですね。旦那様らしいと思います。セイ様、ご存じですか?旦那様は昔から御当主様を大層嫌っていらっしゃるんですよ。ご自身のお父様でしょうに」
「そうなんですか…でも、なんとなくわかります。ぼくもお祖父様は苦手ですから」
「ううーん、シガキには反応しにくいですね」
「あ、すみません」
「いえ、シガキが振った話題ですからセイ様が気にされることでは…」


不意にノックの音が響く。ぼくがどきりとして扉に目をやっているうちに、鹿垣さんは立ち上がり、すばやく椅子を片付けていた。
鹿垣さんは再び鳴らされたノックに「はい。ただ今、参ります」と良く通る声で言い、それからぼくの耳元でぼくにだけ聞こえる小さな声で「この部屋に入ってからの話はくれぐれもご内密に。旦那様に会われたことも、宏孝氏やカグヤ様以外の人間には不用意に喋ってはいけません。よろしいですね」と早口で言った。
ぼくがうなずくと、鹿垣さんは優しく微笑んでみせてから、扉へ近づく。
解錠し、扉を開けると、ぼくの姿を隠すかのように迅速な動きで外へ出た。
扉の閉まる音が響いた。それから鹿垣さんのよく通る声も。


「坊ちゃんがお休みです。もう少し丁寧なノックをなさってください」


どうやら鹿垣さんは本家の関係者に喰ってかかっているらしい。
よくもまあそんな嘘を、と一瞬考えてから、すぐに打ち消す。
そうか、鹿垣さんなりに気を遣ってくれたのか。鹿垣さん風に言うならば、“本家の息のかかった方々”にぼくがちょっかいを出されないように、という事かもしれない。
そう、だよね。母親を亡くしたばかりの、十代の子供だ。そっとしておこう、という気遣いだ。


「守られてばっかり……」


呟きながら、ベッドに横たわる。
月の綺麗な夜に交わした、キサ先生との会話を思い出した。
ぼくは強くなんかないよ、先生。ただ恵まれているだけなんだ。


「…トユカに会いたいな……」






葬儀が終って、3日後の早朝。
キサ先生が屋敷にぼくを迎えに来た。葬式で会ったときは口数も少なく、ぼくの頭を数秒だけ撫でてすぐにいなくなったけれど、今朝は違った。
会った瞬間に抱き締められた。驚きのあまり何秒か声を失ったのは言うまでもない。
ぼくの後ろに立っていた鹿垣さんが先生を睨んでいるのを背中に感じた。


「先生、くるしいんですけど…」
「あ、悪い」


ようやく解放されたぼくの不満げな顔をみて先生は笑い、ぼくの頭に手を置いてやさしく髪を撫でた。


「シガキさんがな、『接触禁止』って鬼のような顔で言うもんだから」


それが今の抱擁に対する言い訳らしい。
鹿垣さんはきつい声音で「貴方は接触過多です」と返す。


「青まで死んだらどうしようって、心配してたんです。ハグくらい良いでしょうよ」


キサ先生は子供っぽく拗ねた声で鹿垣さんに言った。鹿垣さんは「冗談じゃありません。セイ様だって内心、厭がっておられますよ」と、さらに怒っていた。ぼくが振り向いて「いやあの、大丈夫ですよ鹿垣さん」と言わなければ朝から結構な口喧嘩になっていただろう。ふたりして大人げない。


「っと、くだらない言い争いに時間喰ったな…」
「先生がいけないんですよ…」
「まあまあ。…学校、行くんだろ。送ってやるよ。どうせなら先に理科室で兎床を待ち伏せてやれ」


そう言う先生の顔は、久々に穏やかで幸せそうだった。
ぼくと同じように、先生も籠から解放されたのかもしれない。


「…良かった」
「ん?」


気づいたら口にしていたらしい。先生はぼくの言葉をちゃっかり拾って、訝しんでいた。


「いえ、何でもないです。…あの、…先生」
「なんだ、観沙」
「…ありがとう、ございます」


先生は何のことだろう、という顔をしてから、唐突に「あー、」と唸って、ぼくの髪をぐしゃぐしゃと撫で回した。


「んむ、得心がいった」
「…先生?どうして唸りながらぼくの髪をむちゃくちゃにするんですか」
「オレは何もしてねーよ、ってこと」
「ええ…っ、そうかなぁ……」
「そうだそうだ。感謝するなら、兎床にしろ」


キサ先生がそう言い終えた頃合いに、後ろから鹿垣さんが言った。


「そんなところでじゃれてないで、お早く行ってらっしゃいませ」
「はいはい、わかりましたよ。まったく、口うるさい家政婦だぜ」


先生はぼやきながらぼくの髪を手櫛で丁寧に整えて、歩き出した。
ぼくも急いで追いかける。鹿垣さんの方へ振り返って「行ってきます」と手を振ると、鹿垣さんはにこにこと手を振り返した。













(行ってきます。)





10.09/02


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