母様は、ぼくを翠と呼んでいたんだ。あのひとのなかで、我が子はスイ。
ほら、ぼくの瞳は翠色と青色の中間だろ。見る人の感覚によってはみどり色にもなるし、あお色にもなるんだよ。信号の緑色は「あお」って言うのと一緒かもしれない。あれ、違う?
とにかく、母様にとっては海のエメラルド色だったんだ。あおと、砂の世界。
父さんが、ぼくがまだ幼い頃に家を出て、失踪したって話は聞いた?
父さんがいなくなってから、母様はぼくの名前を認めてくれなくなった。父さんのことを憎んで、恨んで…父さんに関するものすべてを嫌ったんだ。青って名前は、父さんがつけたものだったから。ぼくも拒絶された。それから母様は精神を病んで、現実を自分に都合の良いように受け取るようになってね。
自分の子供は翠って名前の、とてもよく言うことを聞く良い子だと思い込んだんだよ。
それからずっと、ぼくの名前は翠になった。だけどぼくは、父さんがくれた名前が好きだったんだ。
父さんが、ぼくにくれた本当の名前は青。そう、君も知ってるだろ。青って書いてセイって読むの。
父さんにとっては、空のあおだったらしい。海のエメラルドに映って観える世界。空と、鏡になる海の青。ふたつの意味の碧。碧はあおくて、碧はみどり。どちらか片一方じゃない、ふたつの青だって。
え?なに、トユカ。海は常に波があるから、鏡にはならない気がする?…君って本当にロマンがないな。
母様は海が好きだった。父さんは空が好きだった。父さんは母様のことを心の底から愛していたから、母様の好きだという海まで好いた。だから幼いぼくにいつも言ってたよ。「お前の名は、ふたりの愛した青だよ」って。




「ねえ、ちょっとトユカ?聞いてるかい?」


ぼくとトユカは理科室にいた。トユカはキサ先生から借りた、もとい、奪い取った白衣を着て、ぼくの向かいに座っている。


「なんでぼくの手を握ったままテーブルに伏せてるの?ねえってば」
「じゃあおれも加えて、さんにんの愛した青ということで」
「都合の悪いことは聞こえてないのに重要なところは聴いてるフリがばっちりだね。その台詞恥ずかしくないのか」


トユカは顔をあげて、ぼくの瞳をまっすぐにとらえた。


「安心していいぞ。名前の話は聴いてるフリじゃなくて本当に真剣に聴いてるから」


なにが、安心していいぞ、だよ。綺麗な顔でそんなことを言って、ぼくを狼狽えさせるのがわざとだったら君は悪魔だ。




昨日、本当に久しぶりに学校に来て、トユカに会った。
理科室の扉を開けたトユカの顔は、驚愕、の体現と言えただろう。それからぼくは2度目のきつい抱擁を受けた。キサ先生と違って、ぼくがギブアップを告げてもトユカは腕の力をゆるめただけで、抱き締めたままずっと黙っていた。たぶん怒っていたんだと思う。1分くらいしてから、心配した、とだけ言われ解放されたぼくのほうが、トユカの穏やかな顔をみて愛しさのあまり泣いてしまった。


今日はさすがにぼくも泣かない。むしろ幸せで頬がゆるむくらいだった。
日常ってすばらしい。ぼくはここに戻れてよかったよ、トユカの顔を見つめながらそんな風に心の中で呟く。
結果だけみれば、ぼくをこの場所に戻してくれたヒーローは父さんだった。皮肉な話だけど、ぼくの籠をつくる原因になった父さんが、ぼくを籠から出して自由にしてくれた。
でも、父さんをぼくのもとへ連れてきた“星のみちびき”は、トユカだと思う。キサ先生から聞いた話だと、父さんは先生の言葉よりも、トユカの言葉に心を動かされたみたいだった、らしい。とりあえず事細かに聞いた限りでは、ぼくの印象もそうだった。だから、トユカがぼくを救ってくれたとも言える。
さしあたってトユカと、それからもちろん先生に恩返しがしたいんだけど、ふたりは同じ顔をしてぼくの申し出を断った。観沙がいれば幸せだからこれ以上は望まない、なんて台詞までそっくり同じで。


「でもミスナ、両親がいなくてどうするんだ」


トユカはぼくの手を握るのをやめて、ノートをめくる役割に徹することにしたらしい。
ぼくは長らく学校を休んでいたので、端からトユカのノートを写す作業に徹している。なんとなくこの状況にデジャヴをおぼえるんだけど、気のせいだろうか。


「どうもしないよ。うちにはお手伝いさんもいるし、もとから本家からの援助で生活してたんだ。何の影響もないさ」
「ふうん」
「それにね、これからはちょくちょくキサ先生のとこに泊まりに行こうかと思ってる」
「え!!な、なんでだ…!?」
「先生との暮らし、ぼくは結構気に入ってたんだ。鹿垣さんも渋々了承してくれたし、先生も二つ返事で……って、どうしたのトユカ。なんでノートのうえに突っ伏してぶつぶつ文句言うの?ノート見えないだろ」
「ミスナ、それは浮気だと思う」
「ばかなこと言わないで、顔をあげてくれるかい。そこどいてよ」


顔をあげたトユカをぼくは目を眇めて睨め付けたままでいた。
トユカが怯みながらも「浮気はゆるさない…所存です」などと言うから、ぼくは盛大に溜息をつく。


「それこそ安心していいぞ、だよ。ぼくは君をあいしてるんだから」


トユカが無言で俯いていた。耳が赤いので、たぶん彼は照れている。
これでようやく静かになったな、とぼくもまた熱い頬に杖を突いてノートを写す作業に戻った。


「おい、そこの青春カップル。いつまで理科室でいちゃいちゃしてんだよ」


テノールが響く。驚いて入り口をみると、声の発信源のキサ先生がいた。理科室の扉を後ろ手に閉め、こちらに近寄ってくる。


「あれ、もう下校時間ですか?」


ぼくが聞くと、キサ先生は壁に掛かった時計を示しながら苦い顔をした。


「まだ余裕あるけど。おまえらがそこでいちゃついてたら煙草が不味くなるだろ」
「貴嵯、ほんとに教師やめろよ」


トユカが恥ずかしさから復帰して言うと、キサ先生はますます苦い顔をする。


「うるせえ。不純同性交遊のクソガキに言われる筋合いねえよ」
「勤務中に理科室で煙草吸ってる教師のほうがよっぽど悪いだろ」
「はいはい、オレが悪いということにしといてやるよ」


先生は適当にトユカの言葉を受け流しながら、おとなしく座っていたぼくを、立ったまま背後から抱きしめた。


「先生、どんな流れでハグしてるんですか」
「聞いてくれ観沙。オレさ、すげー良いことにふたつほど気づいたんだ」
「はあ…なんでしょう…」
「まず、おまえを抱き締めるとオレは癒される」
「そうですか…ぼくはちょっと、色んな意味でどきっとするんですけど」


トユカの嫉妬がこわいのと、鹿垣さんの「宏孝氏に少年愛の趣味があったらどうしましょう」という言葉を思い出すのだ。男になんぞ興味ねえ、と言っていた先生がそんな趣味になってしまったとしても、それは先生の自由だから、べつにぼくは構わない。ただまあ、トユカと鹿垣さんの怒り狂った姿をみたくないなぁと思うのと、先生が幸せになれないのが心配なだけ。


「それともうひとつ。おまえを抱き締めると、トユカをからかうことができて面白い」
「あー。なるほど」


ぼくが抵抗しないから怒っていいのかどうかわからなくなっているトユカが目の前で硬直していた。なるほど、ちょっと面白いかもしれない。そんなこと口が裂けても言えないけど。


「それはいただけませんね、先生」
「ま、安心していいぞ。オレは同性には興味ねえから」


安心していいぞ、ってまたそれか。と思いながら、ぼくは首にまわっている先生の腕に手をかけて、ちょっときついけれど振り向いた。
互いの息がかかるほど近くに先生の顔がある。さすがの先生もちょっと狼狽えていた。


「せんせい、ぼくが男の子にみえてますか?」


ぼくがにっこり微笑むと、先生は一瞬固まってから、弱ったなーと言いたげな表情をした。それからぼくの頬に軽くキスをする。


「生憎と、微妙だよ」


おやまあ、と呑気な感想を心の中で浮かべながらぼくが頬に手をやると、テーブルに身を乗り出したトユカがぼくのその手をとった。
先生はあっという間にぼくから離れて、煙草を吸おうと教室の隅に移っている。引き際を心得ているらしい。さすがキサ先生、と言ったところだった。


「ミスナ」
「何かな、トユカ。先生のあれは冗談だと思うよ」
「はやくノート写すんじゃなかったのか」
「そうだったね。ごめん」


トユカは本当に怒ると、怒ってる事柄について触れないように話題をそらす。トユカを嫉妬させようという意図がちょっぴり有ったので、ぼくは罪悪感2割増しだった。トユカはきっと数分経てば怒りを消化してくれる。そうなるとぼくの罪悪感は3割増しだ。どうやら本当に失敗したな、とぼくが悩んでいるのを知ってか知らずか、キサ先生がこちらに戻ってきた。


「なあ兎床。星や星座に方言があるって知ってるか。その話をしにきたのに忘れるところだった」


キサ先生の問いに、トユカは2倍速で怒りを忘れて「なんだそれ」と返していた。
ちょっと単純すぎやしないか。ぼくの悩みはどうなる。とも言えずに、呆れながらぼくも会話に加わる。


「方言って、どういうことですか?」
「星や星座にも地域独特の呼び方があるんだよ。地域によっては、同じ方言が別の星を表すこともあるとかどうとか」
「へえ、面白いな」
「どんなものがあるんですか?」


先生が楽しそうに話すから、ぼくらも興味がわいてくる。


「まあ詳しくは自分たちで調べてみろ。今度、選択授業でこれについて色々と課題にするつもりだから」


先生はぼくの顔をみてからトユカに目を向け、話を続けた。


「それで、アルデバランにも色々と、方言の名前があるんだが。ひとつ、面白いのがあってな。とある地方でアルデバランは“アイノホシ”と呼ばれたらしい」
「あいのほし?…愛の星ですか?」


ぼくがシャープペンシルでノートの隅にハートマークを描きながら尋ねると、我が意を得たり、という顔で先生が「いいや、違う」と否定する。


「けど、聞いた瞬間、そう思うだろ?だから面白いと思ったんだ」
「じゃあ、実際はどういう字なんだ?」


トユカが尋ねる。先生はぼくのシャープペンシルで書き記す。


「あいだ。間の星って書いて、あいのほし。スバルとオリオン座の三つ星の間に昇るから、だって」
「なるほど」
「んー…。ぼくは愛の星だと思ってたほうがよかったな」


先生が笑う。


「思うのは自由だよ、観沙。ロマンチストはそう思って空を見上げればいいんだ」


言い終えると、先生はぼくの頭を撫でてから離れ、ひらひらと手を振りながら出口へ向かっていた。


「あれ、先生帰るんですか?」
「いや、まだしばらく職員室にいるけど。おまえら、こんなところで油売ってないで早く帰れよ」
「はーい」


先生が立ち去ると、理科室でぼくらは再びふたりきりになった。


「ねえ、トユカ」
「どうした、ミスナ」


トユカは自分のノートを随分前まで遡ってめくっていた。そのページには大きく、牡牛座が描かれている。


「冬になったら、ふたりで星をみようか」


トユカを見つめると、視線に気づいたトユカもぼくの瞳をまっすぐ見て問い返す。


「冬のダイヤモンド?」
「そう。アルデバラン」
「いいな、それ。すごくいい考えだ」
「じゃあ約束しよう、トユカ」


ぼくが小指を差し出すと、トユカは小指をのばして、絡めた。
ぼくよりもはやく、トユカが言う。


「俺とミスナは、ずっと離れない」


ぼくはこのどうしようもない幸せを受け止めきれなくて、すこし、ほんのすこしだけ「うん、約束する」応じる声がふるえた。
見ると、トユカはぼくよりもずっと泣きそうな顔で微笑んでいた。
ぼくは今までたくさん泣いたけど、トユカは泣く機会がなかったのかもしれない。それが今なのかもしれない。


「愛の星に誓って、ずっと」


ぼくの言葉が空気にとけていった。トユカはぼくの手を握りしめて、静かに泣いている。陽の当たらない理科室で、幻をみているような気がした。ぼくらは今も昔も、牡牛座のアルデバランに祈りながら、愛しあっている。ふたり、こうして日常に帰ってきたんだ。
ぼくは胸の奥で誰にともなく呟いた。


ありがとう。


ただいま。








   







10.09/04

(君のそばにぼくがいて、ぼくのそばに君がいる)
inserted by FC2 system