鹿垣さんの案内で庭を見たり、花の水やりを手伝ったり、とにかく屋敷に帰ってからの時間は充実していた。時間が経つのもひどく早い。居間で無花果のパイと紅茶をだされた時に、ようやく今が3時だと気づいたくらいだった。
楽しく過ごすのも良いけれど、そろそろ母様に会わなくてはならないだろう。
鹿垣さんは家事で色々と忙しいらしく、今の今までぼくと一緒にいたのが嘘みたいに姿を消していた。そんなに忙しいんなら無理してぼくに構わなくても良かったのになぁ、と数秒本気で思ったけれど、それでもぼくと一緒にいてくれたのが鹿垣さんなりの優しさだろうし、本当に忙しくて手が空かないという事情ならば鹿垣さんも正直にそう言うだろうから、あんまり心配しなくてもいいのかもしれない。さしあたってそう考えることにした。
ソファから立ち上がり、深呼吸をする。
母様の寝室へ行くならば今だ。鹿垣さんに見つかったら心配されるだろう。何しろキサ先生に聞いた限りでは、この間のあの一件のことを鹿垣さんは自身の責任だと思って悔いているらしい。そうするとぼくが母様の寝室へ行こうとすれば止めるだろう。でなければぼくと一緒についてくるに違いない。ぼくはできればふたりきりで、というか、ひとりで母様と向き合いたかった。
可能性としては、鹿垣さんが母様の看病をしていて寝室でばったり、ということも有り得そうだが、台所からなんとなく聞こえる物音を鑑みるに、鹿垣さんは料理をしているはず。…はずだ。週に2日だけ来る、別のお手伝いさんが料理している、ということも考えられるから、ちょっとその点において自信はない。
確かめるためにぼくの姿を晒すのも、その先の行動のリスクが跳ね上がるだろうから、やめたほうがいいだろう。
まあ、何はともあれ。行動してみなければ始まらない。
そう結論をだして、廊下へでようと、居間の出口を見た。開けっ放しになっていた、扉。
直接見えた、廊下に、


「え……?」








青 の 迷 夢









一瞬、誰かがいた。
本当に一瞬だったのに、まるでスローモーションのようにぼくの瞳に焼き付いた影。
黒い服、スーツだろうか。背格好は、キサ先生よりも少しだけ背が低いくらい。
男の人だ。淡い、金色の髪。


「目の錯覚…?」


急いで廊下にでる。辺りを見回す。誰もいない。
幻だったのかもしれない。或いはただの客人だったのかもしれない。けれど、そう思いながらも、気づいたらぼくは走り出していた。
長い、広い廊下を駆け抜け、その先の階段を駆け上がり、踊り場から二階の廊下へ進んでいく黒い人影をみつけた。


「(幻じゃ、ない…!)」


あまりにも急に走ったから、息は荒れるし、最後の一段で足が上がりきらずに躓いて転びそうになった。散々だ、と心の中で毒づく。運動神経はトユカほどじゃないにしても、人並みにはある。それなのにこの有様だ。床の絨毯が柔らかいせいで足にかかる負担が予想以上だった?廊下が長すぎた?階段の一段一段の幅が広すぎた?……違う、それだけじゃない。
どうしてこんなに動揺してるんだろう。髪の色がぼくに似ていたからって、こんな髪の人はどこにでもいるんだ。なんでこんなに、必死になってるんだろう。温かな想い出が、幸せだった幼い記憶が、頭の中で踊り狂っていた。


「とうさん…っ」


父さん。そんなはずはないんだ。帰ってくるはずはないんだ。だってずっと、そう思って我慢してきた。
父さんは失踪した。行方知れずの男になった。胸を張って父様と呼べる存在ではなくなってしまった。それでもぼくは父さんが好きだったんだ。父さんに帰ってきてほしかったんだ。もう一度、会いたかったんだ。だけどそれは叶わない、そう思わなければ我慢できなかった。
二階の廊下を進む。建物はコの字型になっていて、母様の部屋は反対側の一番端。中庭を挟んだ向かいの窓へ視線をそらすと、金の髪の人は見えなかった。


「(え?だって、どこへ消えたの?)」


まさか、途中でどこかの部屋へ入ったのだろうか。母様の部屋ではなく?そんなまさか。
何の根拠も無いけれど、それは無いような気がした。けれど、何の根拠も無いから、不安になって走るのをやめ、早足で通り過ぎる部屋の扉をみる。コの字型の最初の角を曲がって、ようやく視線を前へ戻すと、金髪の彼は目の前に立っていた。驚きのあまり、息を止める。そうか、階段を上がってすぐの位置からでは、ここは死角になっているのか。


「やあ」


彼はそう言って、慈愛に満ちた笑顔をぼくに向けた。
淡く透きとおるような金の髪。ぼくよりもずっと青い、蒼い空のような、サファイアの瞳。端整な顔だち。歳は三十くらい、に見える。黒いスーツ、黒いシャツ、白いネクタイ。
ぼくが大人になれば、この人とそっくり似るかもしれない。


「あ、あの……」


ぼくは何を言えばいいのかわからず、しかしここで何か言わなくては、と衝動のまま、混乱した頭を整理しないままに唇をうごかした。
けれどそんなぼくとは違い、彼は言葉を用意していたらしい。


「久しぶりだね。セイ。元気だったか」


あたたかい声だった。ぼくはこの屋敷で久しぶりに本当の名前を呼ばれたこともそうだけれど、それ以上に、自分の胸にわきおこる、確信に満ちた思いに驚いていた。


「…。…父さん、なの…?………父さん、父さんなんでしょう?」


熱をもった喉は、ぼくの言葉をふるわせている。
彼は困ったように笑って、そうだな、と小さく呟いた。


「セイがそう思うのなら、私はまだ父親なのかもしれない」


ああ、嗚呼、もう泣いてしまいそうだ。大声で泣き喚いて、すがってしまいそうだ。
ぼくはその場に膝からくずおれた。


「父さん…っ。父さん、ぼくは、」


話したいことがたくさんある。聞いてほしいことがたくさんある。ぼくはあなたを待っていたんだ。母様だって、あなたをつよく恨みながら、それと同じくらいつよく、あなたを待っていたんだ。ぼくはスイで、だけどセイで、翠で碧色で青だったの。ねえ、ぼくの父様。あなたにたすけてほしいと思ったことが幾度もあるんです。
だけどもう、この瞬間には叶わない。今まで隠して、たくわえていた想いのすべてが、この瞬間では意味がない。
だって言葉にならないから。どれだけ冷静なつもりでも、ぼくの頭や、胸、喉、指先、心が限界だった。
ぼくが、あと何メートルか歩いたら、今にも死んでしまいそうな母様がいる。
ぼくがあと少しだけ手をのばしたら、幻のような父様がいる。
こんな夢に迷いこんで、ぼくはおろかにも、幼い幸せの記憶が今このときに元通りになればいいと思っていた。だけどそんなことはありえない。
母様は肺を患って、もうあと何日生きられるだろうか。父様はあと何分ここにいてくれるんだろうか。
父様は帰ってきたわけじゃない。それはぼくの勘でしかないけれど、きっと外れていないはずだ。父様はここに帰ってきたんじゃない。ただ、訪れただけ。
それでも。父様と母様のあいだにぼくがいて、3人。家族で一緒にすごす時間はあるだろうか。
母様が元気になって、父様が仕事へ行ってもちゃんと帰ってきて、ぼくと一緒に絵を描いて、母様がそれを笑いながら見ている。そんな、あの頃とおなじ、幸せな時間。
ああ、わかってるんだ。そんな時間はもうどこにも無い。ここへは来ない。ぜんぶ、ぜんぶありえない。
きっとふたりはぼくを置いていってしまう。こんな冷たい時間だって永遠じゃない。ぼくを置いて、どこかべつの世界へ帰ってしまうんだ。


「セイ、……青、ごめん」


父さんがぼくを抱き締めている、そう気づいたのは「ごめん」の2秒後だった。


「青は、私を信じていたんだね」
「……信じてた…っ、ずっと信じてたよ…!あなたに会えると信じていた、遠くからでも愛してくれてるって信じてた、母様と父さんと家族みんなで幸せだったあの頃からずっと、ぼくはあなたを信じていたんだ…っ!」


叫びながら、自分がずっと前から泣いていたことに気づく。そうか、この人が父さんだと確信を得た瞬間から、ぼくはずっと泣いていた。泣いてしまいそうなんて思った時にはもう、頬が濡れていたのか。
だから父さんは謝ったんだ。でもぼくは、謝ってほしいなんて思ったことは一度もない。たぶん父さんはそういうこともわかっている。わかっていても、謝りたかったのかな。ぼんやりと、遠くの自分がそんなことを考えた。


「青があの人を愛してくれて、本当に感謝している。母親だからといって、無条件に愛せるような生活ではなかっただろう。それでも、あの人を愛してくれてありがとう」


父さんがゆっくりと喋る。ぼくは何も言えずに、首を横に振った。お礼を言われるようなことじゃなかった。ぼくは母様を愛している。翠と呼ばれても、どんなにぼくを否定されても、無条件に。


「恨んでいるか」
「いいえ…ぼくは父さんと母様を愛しているから」
「そうか。私もね、青とあの人を愛しているよ。今までも、これからもずっと」


まるで神様の声だと思った。神様なんてものは知らないけれど、ぼくにとっての、そんな感覚。
体から力がぬけていく。はりつめていた糸が切れたみたいだった。父さんがぼくの体を離して、うつくしい蒼い瞳で、ぼくの碧い瞳をみた。
それから優しく、淡く微笑む。求めていたものとは少し違うかもしれないけれど、これも父さんの温かな笑顔だった。


「青、」


父さんの唇がゆっくりと、おそらく用意されていた言葉をなぞっていく。


「お前もそろそろ自由になる頃だよ」


え、と聞き返す猶予もなく、何も理解できていないぼくを置いて、父さんは立ち去った。まるで霞が立ち消えるような印象だった。


「父さん…?」


残されたぼくは何分くらい固まっていただろうか。
ある瞬間、我に返ったぼくは、(まるで天啓のようだった)立ち上がり、意図せずゆっくりとした足取りで、母様の部屋へ向かっていた。
胸の奥がざわついている。悪い予感のような、或いはその真逆のような、どちらともとれない、言い知れない感じがぼくを支配していた。
母様の寝室の扉は、わずかに開いていた。
今、入ってはいけない。強い危機感がぼくにノックを躊躇わせた。開けるに開けられず、ともすれば隙間とも言える、ほんの10センチ前後の光景をのぞく。
手前には、横になったままの母様が、奥にはベッドの脇に立っている父さんが、何か言葉を交わしているようだった。母様は取り乱しているんだろうか。
ここからでは話している内容までは拾えず、状況がわからない。


不意に、父さんが屈み込む。
まるで死神のようだった。或いは迎えの天使なのかもしれない。黒衣の天使が、母様を連れていこうとしている。そう、きっとそのつもりなのだ。父さんは母様を連れていこうとしている!
父さんは母様とくちづけをかわした。その時間がとても永く感じる。見てはいけないものを見てしまったようでもあり、逆に、見るべくして見た、という感じも受けた。悠然とした死の接吻。
母様が、ほっそりとした白い手をうごかして、父さんの顔を撫ぜた。その動作を視ただけで、ぼくには母様が死を受けいれているのだとわかった。
父さんが母様からすこしだけ離れる。それから父さんは母様の手をとって、自分の片手を重ねた。ここから父さんの顔ははっきりと見えない。でもその時、父さんが泣いているような気がした。
そこからはほんとうに一瞬のできごとだった。けれどぼくの瞳には、とてもゆっくりと移ろっていく時間だった。
父さんがゆっくりと手を放す。母様の手が支えをなくして、おちる。たぶん、薄い吐息で上下していた胸はもう動いていない。父さんが母様の顔へ手を翳した。そしてさいごに、もう一度だけ母様の手をとり、くちづける。
ぼくは息を殺していた。頬をつたう涙を無力なてのひらでぬぐった。もしかしたら、と思う。もしかしたら、父さんが母様をころしたということになるのだろうか。永い接吻が、肺の悪い母様にとってよくない行為だとは、ぼくにだってわかる。父さんもそれをわかっていて?
でも、だけど。もしかしたら。母様はもう永くなかった。どのみち今この瞬間に逝ってしまうのが決まっていたとしたら。あいしあうふたりの、さいごのキス。ただそれだけだとも考えられる。本当のことは誰にもわからない。ここからみていただけのぼくにはわからない。


ぼくはその場から離れた。
絨毯は足音をある程度吸収してくれるけれど、やましい事は得てして発覚しやすいものだ。ぼくが視ていたこと、父さんにはわかってしまったかもしれない。それならそれでもいい、と思う。秘密にしよう。ぼくだけの秘密。父さんとふたりだけの秘密。
ぼくは走った。誰にもみつからないように。庭へ出て、茂みをくぐって、常緑樹の根っこに座り込む。小さい頃から、何かあると隠れるようにここに来た。周りはすこし背の高い生け垣が囲っているから、この樹の根元にいると屋敷から姿が見えない。すぐうしろには高いレンガの塀があるし、誰にも見つかることはないのだ。鹿垣さんはこの場所を知っているかもしれないけれど、すぐにここへはやってこないだろう。
膝を抱えて、深呼吸をする。


「かあさま…」


あのとき。本当は、飛び出していきそうになった。冷たくなっていく母様のわずかに残ったぬくもりを求めて。父さんに見つかることも厭わずに。
でも、それはできなかった。
母親を愛している。死んでほしくなんかなかった。どんなにぼくが殺されそうになっても、ぼくは母様を失いたくはなかった。そもそもまだ、向き合ってもいない。この間の一件以後、キサ先生と一緒に暮らしていて、母様の顔をしばらく見ていない。『あんな子は要らなかったのに』と言われたのが母様との最後の記憶だ。笑ってしまうくらいひどい記憶だった。母様の泣き顔。美しい泣き顔をあのとき思い出した。
けど、母様と同じくらい、もしかするとそれ以上に、ぼくは父様を、父さんを愛している。
だからあの空間を壊すようなことはできなかった。あの余韻を崩してまで、求めるべきではないと思った。
母様は幸せだったんだ。本物の父さんにまた逢えて、本当に幸せだったはずだ。でなければ死を受け入れたりしないと思う。あの人は父さんに逢うまで生きようとしていた。あの人の人生はあの瞬間で終った。星の寿命のように、輝いて消えたんだ。それはきっと間違いない。
瞼をとじると、トユカを思い出した。彼ならどう考えるだろう。聞いてみなくちゃわからないな。だってぼくとトユカじゃあ、何もかもが違うから。彼はもっと上質な答えをだすかもしれない。でも、どうかな。まだ、わからない。













(そして夢はさめる)






10.09/01


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