朝、いつもよりも早く目覚めた。二度寝などすれば最悪の結果になることが目に見えているので、仕方なく無理に起き上がる。それから大通りに面した窓を開けた。傾斜があるので、開けるのに毎朝苦労している。
俺の部屋は三階の屋根裏だ。(とはいえ狭いわけではない。普通の部屋の天井が三角になっている感覚だ。)残念ながら天窓は開けられないが、斜めの窓を開けるのが地味に楽しい。父さんに無理を言ってこの部屋を手に入れたのはやはり正解だったと思う。天文学者(だったか天体関連の科学者だったか…)の父さんが仕事で使う道具を以前はここに仕舞っていたけれど、俺がここを自室として使うことになってからはそのほとんどが姿を消した。どこに移動したのか訊ねても、父さんは教えてくれない。家のどこかにあるのか、或いは研究所にあるのか。未だに謎である。しかしまあ、父さんが「秘密」と言うのを荒立てて探し回るわけにもいかないのでこの謎は放置している。
この部屋に唯一残された父さんの私物は天体望遠鏡だった。一応は俺も使っていいことになっている。父さんと、亡くなった母さんとの想い出の品らしい。俺も小さい頃から、父さんと一緒にこの天体望遠鏡で星をみているので、俺にとっても想い出の品だ。強いて言うなら我が家の家宝。


「…まだ5時20分か…」


ぶつくさ言っても起きてしまったものは仕方がないので、とりあえず制服に着替えて、二階に降りた。洗面所に寄ってから、リビングに行く。


「おはよう、母さん」


リビングの出窓に置かれている、母さんの写真。木製の写真立てはくすんでいるけれど、母さんの姿は相変わらず綺麗だった。こんなに綺麗な人が自分の母親だと思うと、なんとなく不思議な気持ちになる。母さんは俺を出産した時に死んだ。だから俺は母さんを知らない。父さんがしょっちゅう母さんの話をするから、人となりは伝わってくるけども。


朝食は自作のスクランブルエッグと、薄く切って焼いたバケット。それらを食べ終え、食後のデザートに林檎を剥いて食べていると、父さんがリビングに入ってきた。


「なんだ赫夜、今日はやけに早いなぁ」
「おはよう、父さん」
「ああ、おはよう」


それから父さんはぼさぼさの髪に手をやりながら、出窓に視線をうつした。


「菫さんも、おはよう」


この瞬間の父さんの顔は、いつも以上に優しくて、ぼんやりしている。ひょっとすると父さんだけは写真の母さんと会話できるのかもしれない。なんて、まさかね。


「父さん。林檎、今食べるなら剥くけど、どうする?」
「いや、あとで自分で剥くからいいよ」
「わかった」


父さんが食卓の席につくのと入れ替わりに、俺は席を立ってキッチンに移動した。
食事を終えたらさっさと外に出よう。登校するには早いけど、折角だから散歩してから直接学校に行こうかな。そんな風に思いながら食器を片付けていると、父さんが不意に「そういえば」と言う。


「なあ赫夜。観沙くんはどうした」


「うぉわっ」洗い終えたグラスを、取り落としそうになった。グラスはかろうじて手に留まったが、動転は酷い。深呼吸で無理に平静を保とうとする。流し台は食卓からギリギリ死角だ。こちらの表情は向こうに見えていないはず。


「かぐやー…?何か落としたのか?」
「落としてないよ…。…それより、何でミスナの話なんだ?」
「だって、こないだまで毎朝一緒に学校行ってただろう」
「……それは、……」
「もしかしてお前が最近ふさぎこんでるのと関係があるのかと思ってな」


父さんがキッチンに立っていた。俺の顔をまっすぐ視ている。


「俺が、悩んでるのは…、俺の問題だよ」


俺は、答えられるだけの精一杯を答えた。


「そうか」


父さんはそれだけ言うと、目の前の冷蔵庫の扉を開けた。牛乳パックを取り出す父さんを尻目に、俺はキッチンを立ち去る。
歯を磨いて、部屋にバッグを取りに戻って、それから玄関へ。


「赫夜ー、忘れ物ー」


二階から父さんの声がした。


「なにー?」


俺が答えてから2秒後に、父さんが階段を下りてくる。


「リボン、忘れてるぞ」


差し出されたのは、制服の紅いリボンタイだった。


「…ありがとう」


受け取ってから、リボンを結ぼうとバッグを床に置いた。そのまま少し、動きをとめる。
ああ、そうだ。このリボンを、きちんと結ばなくても怒る人はいない。ミスナは今、いない。たぶん今日も、ミスナとは会えない。リボンはしなくちゃだめだよ、と。俺の胸元を指差すミスナは、それから困ったように笑うミスナは、いない。今日は、今日も、まだ、また。


「結ばないのか」


父さんが、まるで俺の考えを見透かしている風に、優しい父親の声で尋ねた。俺は何も応えられずに、真紅のリボンをぼんやり見つめる。なんて言えばいいのだろう。結ぶべきかどうかすら、まるでわからない。


「今日は、結んで行きなさい」


思いがけない言葉に驚いて、俺は顔を上げた。父さんが柔和に微笑んでいる。


「なんで…?」
「理由というほどの理由はないんだけどな。まあ、なんとなくだ。そうしなさい」
「……わかった」


リボンを結んでバッグを持ち、玄関の扉に手を掛ける。


「いってらっしゃい」
「…いってきます」


外は、朝の光で満ちていた。








   星 の 恢 復








通学路を、いつもより遠回りして歩く。まだ6時半ぐらいだし、散歩がメインだ。
15分ほど歩いて、前方に路上駐車している車が見えた。その脇にスーツの大人が立っている。
何となく近づきたくないオーラがびしびしと伝わってくるのだが、車の向かいにある公園を通り抜ける予定なので避けようがない。段々と距離を詰めるにつれ、無茶苦茶見覚えのある灰色の大人だと気付く。どうやら向こうも気付いたらしい。


「兎床?おい、そこのクソガキ、馬鹿ウサギー、止まれっつの。朝の挨拶はー?」
「おはようございます似非教師さま。シカトしてるんだから空気読め」


皮肉を言いつつ立ち去ろうとすると、貴嵯は俺の腕をがっしり掴んで引き留めた。


「おはようさん。ははは、1匹確保」
「知ってるか、貴嵯。兎は1羽2羽って数えるんだぞ」
「は?常識だろ。でもおまえは兎として扱うには可愛げが足りないから匹でいいんだよ」
「意味わからん!」
「オレもわからん」
「はあ?」


そこでやっと貴嵯の顔を近くで見た。俺の訝しげな視線に気付いて、貴嵯はさり気なく顔を逸らす。


「なあ、貴嵯」
「んだよ」
「何で顔、そむけるんだ」
「大人の事情」
「うわ…苦し紛れの言い訳だな」
「見んな、クソガキ」
「無茶言え…気になるだろ。というかそれなら何で引き留めたんだよ」
「…あー。馬鹿なことしたなぁ、オレ」


貴嵯が俺の腕を放す。自由になったとはいえ、貴嵯の様子が気になるので立ち去るに立ち去れなかった。


「何かあったのか?」
「何も。…あったとしても、おまえに教えるかよ」
「ミスナのこと…?」
「……いや、これは俺の問題だ」


ああ、それはとても聞き覚えがあるなぁ。今朝、俺が言ったのと同じだ。


「そうか」


結局、父さんと同じ言葉を返すだけで一杯一杯だった。
貴嵯が俺の頭に手を置く。


「兎床、公園行くか。暇潰そうぜ」
「え、…まあいいけど」


貴嵯についていく形で、公園に入る。
誰もいないと思っていたが、どうやらブランコにひとり、男の人が腰掛けていたらしい。歳は三十代くらいに見える。ブロンドがまばゆい、顔立ちの美しい人だ。黒のスーツに黒のシャツ、白いネクタイといった格好で、不思議とそれがよく似合っている。
なんだか観沙に似ているなぁと思っていると、前を歩いていた貴嵯が急に立ち止まった。ぶつかりそうになって俺は慌てる。


「急に立ち止まるなよ…。どうしたんだ?貴嵯?」
「そんな、嘘だろ…」


幽霊でも見ているような顔で、貴嵯が口走る。
誰もいないと思っていたのは貴嵯もだったのか。だからといって驚きすぎだ。


「本当に生きてたのか、本当に、」


俺が貴嵯に声をかけるよりも前に、向こうの美男が声を発した。


「あれ?もしかして、君、貴嵯の家のご長男じゃないか?」


柔らかな声音、微笑み。ミスナがこれくらいの年齢になれば、と想像する。
彼はブランコからおりて、こちらにゆっくりと近づいてきた。どことなく品のある動きだ。


「ええと、たしか…タカ…じゃなくて、…ヒロタカくん?だったかな」
「…よく、憶えていらっしゃいますね。お久しぶりです……貴嵯、宏孝です」


貴嵯がどことなく辛そうに声を絞り出している。
対して、彼は悠然としていた。ただし、触れれば消えてしまいそうな雰囲気を纏っている。霞のように、眼を逸らした瞬間に掻き消えてしまいそうな存在感。


「ああ、久しぶり。随分と大きくなったね。もう社会人かな」
「…はい。中学校で、教師をしています」
「そうだったね。素敵な職業だ。…ひょっとして、そちらの彼は生徒さんかな。その紅いリボン、ロートシュルツ学園の中等部だ」


蚊帳の外だと思っていたところに、唐突に話を振られ、視線を投げかけられ、俺は声を失った。
透きとおる金の髪はミスナと同じ。瞳の色はミスナよりも蒼が強かった。空の蒼、サファイアの双眸。
何故かはわからない。けれどこれまで一度も経験したことのないような、強い緊張感が俺を支配していた。


「彼は、兎床赫夜です。あなたのお子さんと同じクラスで、仲が良いんですよ」


貴嵯が俺の代わりに紹介するのを聞いて、彼は笑った。「そうか」


「ヒロタカくん。セイは元気かな」
「…答えにくいですね。健康です、けど、元気かどうかは難しいな」


セイ?ってことは、やっぱり、ミスナの親族か何かなのか…?


「観沙さん、いつ帰られたんですか」
「今だよ。今さっき、この街に入ったばっかりだ」
「屋敷には帰らないんですか」
「……」
「奥方の容態については、貴方も知っているんでしょう?それを知って帰ってきたんじゃないんですか?」
「ああ、知っているよ。……まったく、君は厳しいな。その厳しさが青への愛情からだというのが、よくわかる。青の親代わりは、やはり君で正解だったみたいだね」
「…っ…観沙さん、青に必要な父親はオレじゃない、貴方だ!わかっているんでしょう!」


貴嵯の抑えた叫びが、俺にはひどく痛かった。黙って二人の会話を見守るしかできない。俺には。
ミスナが母子家庭だというのは聞いていた。じゃあこの人が父親なのか。それにしてもミスナによく似ている。


「わかっているよ。それでも、セイに愛情を注ぐのは君だ。今となってはもう、私の役目ではないんだ」


冷たい言葉だった。それなのに、その言葉を聞くだけで、彼の内面にふくらむ悲しみの熱が伝わってきた。


「あなたは何故、ミスナから……セイから離れたんですか…?」


気がつけば、そんなことを口にしていた。彼と、貴嵯までもが驚いた顔で俺の顔を視ている。


「理由か。それはちょっと答えるのが難しいかな」


聞いたのが子供だから、というわけでもなく、純粋に彼は返した。


「ただ…今も尚、観沙の家に戻るつもりはないんだ。私はすぐにまた遠くへ行く。セイと暮らすわけにはいかない」
「奥方と、青の問題もご存じですね」


貴嵯が俺を遮るように尋ねた。彼は少し辛そうな顔で答える。


「ああ、すべて知っている。どんな些細なことも報告に上がってくるからね」
「青は、家に戻って、母親と向き合おうとしています。そして奥方も先は永くない」
「……そうだな」
「帰って下さい。…戻って下さい。貴方はそうすべきだ」
「君は何か勘違いをしているかもしれないけれど、私は、妻も息子も愛しているんだよ」


そうだろうな、と思った。貴嵯も恐らくそれはわかっている。わかっていても、彼の行動や言動があまりにもその事実とかけ離れているから疑うのだ。この矛盾は何だろうか。


「自分が近くにいなくても、遠くで自分の大切な人たちが幸せならばそれでいい、って思ってるんですか?」


俺の言葉に、息を呑んだのはどちらの大人だったか。彼は瞼をとじて、溜息をついていた。


「君はとても、鋭いね」


溜息に合わせて彼が呟く。俺は眉を顰めて再度問う。


「自分が関わったらそれが壊れるとでも思ってるんですか?」
「そうではないよ。どちらにしろ、私には絶対に戻れない事情がある。ただ、君の言うとおり、私は関わることを懼れているのかもしれないね。私は自分本位な生き方しかできないんだ」
「俺は…」


何を言おうとしているんだろうか。感情にまかせて口走っているだけで、考えなんてこれっぽちもまとまっていない。ただ、ミスナを思うと、貴嵯を思うと、目の前の彼自身を思うと、黙っていられなかった。


「大切なものが自分の目の前に存在してる日常なんて、そんなのは当たり前じゃないんだ。この間、セイに気付かされました。セイが目の前から突然いなくなるなんて、想像してなかった」


そうだ。俺はただ暢気に過ごしていた。ミスナの言葉をもっとよく聞いていれば、もっと近くにいてやれば、何か変わったのか。それすらもわからない。だって日常にあまえていたから。


「今は遠くなっているだけで、いつか会えるから大丈夫なんて。そんな保証は無いんです。待っているだけで何かが変わるなんて有り得ない。失うのは一瞬で、もしかしたら失ったことにすら気付かないで過ごしてるかもしれない。俺はそんなの嫌だ。絶対に嫌だ」


戻るんじゃない、戻すんだ。少しでもミスナに近づいて、つかまえて。
何をすれば良いかなんてわからない。俺に出来ることは、答えは、


「セイの笑顔がもういちど見たいんです。俺が何をすれば、それが叶うのかわからないけど…。あなたにとっても、大切なひとの笑顔が、答えなんじゃないでしょうか」


愛する人の近くへ。笑顔へ。それを目指して進めば良い。


「それとも、守りたいものはもう無いんですか…?」


俺の言葉を聞き終えて、貴嵯は黙り込んでいた。俺と同じように、彼を見据えている。
彼は瞼を閉じて、それからゆっくりと押し上げた。俺の顔をまっすぐ視て、それから唇を動かす。


「私は、もう君の言う日常に戻れないし、戻らないけれども。守りたいものなら私にだって有るんだよ」


神の子のような、慈愛に満ちた微笑。
彼は俺の髪を撫でて呟いた。「ありがとう。カグヤくん、」淡い声が、ミスナに似ている。


「あの子を愛してくれてありがとう。君に幸運の星の加護がありますように」


俺の髪から温かな手が離れる。彼は踵を返し、公園の出口へ向かって歩き出した。


「観沙さん!」


焦った声で、貴嵯が叫ぶ。
振り返った彼は悪戯がばれた子供のように、はにかんで言った。


「ヒロタカくん。君もありがとう。私の父なら…御当主様ならこう言うのかな。アルデバランの導きに感謝している、と」
「……屋敷に、帰っていただけるんですか……?」
「いいや。ただ、」


前へ向き直った彼がどんな表情をしているのか、俺と貴嵯にはわからない。


「ただ、少し寄り道をする気になっただけだよ。どうやら家に忘れ物をしてきたみたいだからね」


金の髪の輝きが遠ざかる。
彼がこの公園にいた時間は白昼夢のようだった。儚い人。掴み所のない光。
俺はぼんやりしたまま、彼が消えた方角を見ていた。


「兎床」


貴嵯に呼ばれて我に返る。貴嵯は腕時計を見ながら眉根を寄せていた。


「そろそろ学校行くぞ。車、乗せてやるから」
「…いいのか?」
「ついでだ」


首根っこをつかまれてぐいぐいと押される。何をそんなに急ぐんだ、と喚いたら貴嵯はバツが悪そうな声で「うるせぇ」、ぼやいた。


「オレは既にこの時点で職員会議に遅刻してるんだよ」













(アルデバランのみちしるべ)






10.08/31


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