ぼくが本当に欲しかったものは何だったんだろう。
キサ先生の腕から這い出て、涙のあとでどことなく強張っている頬に不快感を覚えながら、ふとぼくはそんなことを考えた。ぼくは、何が欲しかったんだろう。
朝陽がカーテンの隙間から、光のドレスの裾を翻して、ぼくの重たい頭を刺激する。


愛されたかったのだろうか。また、ぼんやりとした考えが遅い瞬きの間に浮かぶ。
愛されたかった、否、ちがう。愛情なら足りているはずだ。
隣には先生がいる。学校にはトユカがいる。家政婦の鹿垣さんだって優しい。
ぼくは、母様の愛情が欲しかったわけじゃない。母様に翠とみなされ、翠と呼ばれて、翠でいることを選んだのは、愛されたかったからじゃなくて、ただそれが、母様と親子で居続ける為に必要なことだったから。家族という形をこれ以上少しでも壊したくなかったからだ。
父さんのことを恨んでいるわけじゃない。ぼくは、父さんがいたころの優しい母様がみたかった。母様とぼくを愛してくれた父さんの笑顔がみたかった。もういちど、もういちどだけでよかった。ぼくは幸せだった家族を取り戻したかっただけなんだ。
ぼくが本当に欲しかったものは、「幸せ」だった。だからぼくは青い鳥。未だに飛べない、籠のなかの青い鳥。


「ばかばかしい…」


ぽつり、と本音が洩れる。だって、こんな考えは馬鹿馬鹿しい。何の意味もない。


「なにが?」


それはキサ先生の声だった。見ると、瞼を薄く開いている先生が微笑んでいる。艶のある瞳が、ぼくを捉えてはなさない。加えて手指も絡め取られていた。いつの間にだろう。驚いて、息を止めた。


「観沙、おはよう」
「おはようございます、先生」
「目覚めのキスはないのか」
「……先生、昨日ぼくが寝た後にワインでも飲みましたか。酔ってるでしょう?」
「酔ってるとしたら、夢にな」
「先生がぼくにキスをされる夢?それとも先生がぼくにセクハラをする夢?」
「冗談だよ。朝からきついな」
「どっちがですか」


ぼくは先生の手を剥がしてベッドから起き、立ち上がった。先生が何故か呻く。


「まだ早いだろ」
「そろそろ起きた方がいいですよ。ぼくは今日も休みますけど、先生は学校、行かなくちゃだめでしょう」
「……今から準備すれば余裕で間に合うよ。おまえの早起きのお陰でね」
「余裕があるのはいいことです」
「なあ、…家まで送っていこうか」


洗面所へ向かおうとしていたぼくの足を、先生の言葉が止める。ぼくは息を1秒ながく吸って、唇を動かした。


「ひとりで帰れます。ぼくを送ってたら先生が間に合わなくなるでしょう」
「車だ。間に合うよ」
「だめだ」
「……」
「だめ、だめです。間に合わないんですよ、それじゃあ」


ぼくの決心、間に合わせの決心。間に合いすぎて、間に合わない。


「…オレの甘えくらい、赦せよ」
「先生の甘えにぼくが甘えたら、色々と壊れてしまいますよ」
「それでも、オレは、」


続かない声。先生がぼくを背後から抱きしめる。ぼくにはわかっていた。続きはない。呪いのような告白なんて、存在しない。存在してはいけない。


「せんせい」


無言の震えが返答になる。


「先生、ほら、まだ酔ってる。車は、よした方がいいですね」
「……ああ、そうかもしれないな…」
「ぼくは、先生と一緒に行けない」
「…ああ。……嗚呼、…わかってるよ…っ…観沙、ごめん。ミスナ、っ…」


(ねえ、先生。謝ったって、消えないんでしょう?ぼくの頭上から降る声は、まるで弾丸みたいな愛の絶叫は。)
それから5分くらいはずっとそうして、先生がきつく、きつくぼくを抱き締めるのを受け入れていた。
痣になるほど、苦しい5分間だった。








   碧 の 迷 霧








久々に家路を歩いている。
赤茶けたレンガの高い塀。背の高い常緑樹の並木。しばらく歩いて、ようやく黒塗りの門の前に辿り着いた。うちの屋敷は無駄に大きいな、と溜息を吐くのも久々だ。チャイムを鳴らして、中から自動でお手伝いさんに開けてもらう。一連のパターン。庭の小道を通り玄関先に着くと、別の家政婦さんが立っていた。


「お久しぶりです、スイ様」


この呼ばれ方も久しぶりだった。この屋敷内では誰もがぼくのことを翠と呼ぶ。そういう言いつけ。
こみあげてきた苦笑いをそのままに、ぼくは口を開いた。


「お久しぶりです、鹿垣さん。ぼくが留守で困ったことは?」
「いいえ、特には」
「それじゃあ帰ってこないほうがよかったかな」
「滅相もない。ここが貴方のご実家ですよ、坊ちゃん。もっと堂々と門を通られた方が良いくらいです」
「そうかな」
「ええ。スイ様としては、宏孝氏のマンションの方がお好きでしょうけども」


鹿垣さんは扉を開けながらそう言って穏やかに笑った。どことなく意地の悪い言葉を選ぶ人だ。
屋敷内で一番ぼくのことを知っていて、一番ぼくと近いせいなのか。それとも気さくな性格故なのか。
まだ20代と言われても納得できるような美人だけど、経歴を鑑みるに30はくだらないだろう。それはもう色々と謎な人。


「どうだろう。人だけなら、キサ先生よりも鹿垣さんのほうが好きかもしれませんよ」


居間に通されると、ぼくはふざけてそんなことを言った。鹿垣さんは定位置のソファへ座るよう、ぼくを促して笑う。


「まあ、お上手。…あ!」
「?」
「……まさか、シガキの按じた通りになったのでしょうか…?」


鹿垣さんは別のお手伝いさんがワゴンで運んできたティーセットを確認しながら、唐突に不安げな素振りをした。


「なんですか」
「いえ、その…宏孝氏にスイ様のお体が穢されてはいないかと。無理矢理に、迫られて…ああ!まさかそれで、宏孝氏よりも私のほうがましだ、と仰るのですか!」
「!!な、なぜそうなる!…そういう妄想を抱くのはやめてください!先生はそういう人じゃない」


ぎくりとしたのは言うまでもない。けど、ぼくの否定も本心だ。
鹿垣さんは何故か、(何故だろう!)残念そうに頬に手を宛がって溜息をついた。


「そうですか…貴嵯の家を出て勘当されたあたりから、あの人もだいぶ堕落していますからね…シガキは心配です。ええ、本当、宏孝氏が同性になぞ興味ないと言い張っても、…23でしたか24でしたか。それくらいの歳になっても女性の影がないなんて…。まったく怪しい話です。」
「なんてこと言うんですか…ぼくはあなたの発想が恐ろしい」
「いえいえ、あながち見当外れではないと思いますよ。だってほら、スイ様は私どものようなそこらの女性よりお美しいから、どんな間違いがあるか、ああ…シガキは心配です…。宏孝氏に少年愛の趣味があったらどうしましょう…!」
「あなたという人は…。いい加減にしてください…それはあなたの趣味でしょう」
「まあ!スイ様ったらお厳しい。シガキはスイ様からカグヤ様のお話を聞くのを物凄く、ものすごく楽しみにしている程度です」
「……そうですか…ではもう話しません…」


「ところで、スイ様。何にしましょう。アッサムでよろしいですか」
「ダージリンは?」
「そう仰ると思いました。もう準備してあります」
「じゃあなんでアッサムを提案するんですかっ」
「ミルクいれましょうか」
「ストレートです!…鹿垣さん、スルーしないでください」
「嫌ですわ坊ちゃん。ダージリンはストレートのほうが美味しいでしょうに」
「…。…ぼくもそう言ってるでしょう…。この会話楽しいですか鹿垣さん」
「正直に申し上げると、からかい甲斐があって非常に楽しいです」
「ぼくは楽しくないんですよ!」
「そうですか…シガキのことが嫌いですか…」
「そうではなくて…!…もうっ」


ぼくがいよいよ頭を抱えると、鹿垣さんは声をあげて少女のように笑った。淹れたての紅茶をぼくの眼前のテーブルに置くと、ぼくの頭を一度だけ撫でて、顔をあげさせる。


「緊張は、ほぐれたようですね」


鹿垣さんの言葉の意味が分からず、ぼくは一瞬固まって、それから間の抜けた声をあげた。


「へ?」
「門をくぐる時からずっとですよ。緊張なさっていたでしょう」
「え…、そう…でしたか?」
「そうですとも。自覚されてませんでしたか」
「…はい…」


自分では、迷いも緊張もなく、くっきりとした決心を抱いている心地だった。それがいけなかったのかもしれない。
ぼくが複雑な気持ちで黙り込んでいると、鹿垣さんがくすりと笑った。


「宏孝氏の案じたとおりになりましたね」
「どういうことですか?」
「今朝、宏孝氏からお電話をいただいたのです。きっと坊ちゃんは緊張されるから、リラックスさせるように、と承りました。無論、宏孝氏にお願いされずとも私どもは最初からそのつもりだったのですが……あの方は本当に過保護ですね」
「そう、でしたか。…ぼくが脆いから、余計に過保護にさせてしまっているんだと思います」
「シガキはそうは思いませんが。あの方にとって、坊ちゃんがとても大切な存在だから、ですよ。過保護とは大概、保護者側の気持ちの問題ですから」
「……そういうものでしょうか」
「ええ。この点においては絶対の自信がございます」


鹿垣さんが淹れてくれた紅茶を一口、含む。香りを愉しみながら、透きとおるティーカップの海をみつめた。
朝、玄関でぼくを見送った先生の顔が脳裏をよぎった。普段、学校で見るのと同じ顔つきのキサ先生。いってきます、とぼくが笑う。それから気恥ずかしそうに、そんな言葉を口にするのは慣れていないんだと言う風に、いってらっしゃい、ゆっくりと先生が呟いた。
トユカはぼくに会いたがっている、と先生は言う。それからぼくの秘密を知りたがっている、と。
だけどぼくは?ぼくはどうしたいんだろう。トユカの願いを叶えるために、ぼくは何をしたらいい?
まずは母様と向き合わなくちゃ。それから?それから、どうすればいいんだろう。まだ、よくわからない。これでは、まだ足りない気がする。


「スイ様」


いきなり鹿垣さんに呼びかけられて、ぼくは動揺してしまった。ティーカップが大きく揺らされて紅茶が波立つ。考えに耽っていたことをなんとか誤魔化そうと、急いで意識を鹿垣さんに傾けると、鹿垣さんがじぃっとぼくの顔を視ていた。


「な、んでしょう」
「スイ様、少しお庭にでませんか。新しく植えたものも有りますし、ぜひご案内したいのです」
「…あ、はい。そうしましょう」


ぼくがぎこちなく笑うと、鹿垣さんもゆっくりと微笑んだ。おそらくぼくの考え事は見抜かれているのだろう。どうしたってこの人には敵わない。ぼくは冷や汗でも流れそうな心地で、ティーカップに残っていた紅茶を飲みほした。













(まだ何もみえない)






10.08/31
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