最初に会ったとき。おかしな大人だと思った。同時に妬ましい、とも。



煙草の馨を常に纏っている男だった。スーツを着ていても何故か、だらしない印象を抱かせるのは緩く結ばれたネクタイのせいだろうか。その上に薄汚れた白衣を羽織っていて、ますます胡散臭かった。まばらな長さの前髪と、あらわになっている切れ長の鋭い眸。凡庸な人間のそれとは違っていたが、優れた人間とも似つかない。
何より気に喰わなかったのは、こんな奇妙な雰囲気の男とミスナの間にあった親密感だ。男は気易く(がさつに)ミスナに触れるし、それをミスナも快く受け入れているようだった。本心からやさしく笑うミスナは、この男の傍でよく目にする。



「(…気に喰わない)」



だからミスナにこの男を紹介されるとき、思い切り睨み付けていた。



「キサ先生。こっちは、ともだちのトユカ。最近転入してきたんです」



ミスナが眸を細めて、嬉しそうにそう言った。方向が、自分なのかこの奇妙な教師なのか、いまいち判断しかねる。



「女……じゃねえよな」



片目を眇めて男が呟いた。こういう台詞は昔から聞き慣れているけれど、この男に云われるとこれまでになく癇に障る。苛立ちを発することもできずに口を閉ざしていると、勝手にふたりだけで会話が始まった。



「トユカは男の子ですよ」



と、ミスナが苦笑。



「だよなぁ。…ったく、なんでこの学園はこう…美人が多いかねぇ」



男は溜息をつく。ミスナが今度こそ柔く微笑んだ。



「先生?手を出したら不道徳きわまりないですよ」
「ださねえよッ!あのなぁ、おまえ。オレを何だと思ってやがる」
「あははっ。まあとにかく、そういうのはぼくひとりに留めておいてくださいね」
「っ…!!こら観沙…誤解を招く物言いをするな…っ」



かちん。ときたのは言うまでもない。ミスナの手前、攻撃はできないが。とにかく視線にありったけの敵意をこめた。すると男がこちらを見つめて、愉しそうに口角をつり上げる。



「おう、ガキ。いい眼してんじゃねーか」



そのとき意外だったのは、男が妙にやさしい大人の顔をしていたことだ。



「兎床赫夜…だったか。名簿みたとき、どうせ名前負けだと思ってたが。案外面白そうなやつでよかったぜ」
「…失礼な大人だな。あんた、ミスナの何なんだ」



声を潜めて威嚇すると、男は一瞬息をとめて、目をすこしだけ見開いた。それから額に手をやって笑い出す。



「ふ、ははは…っ。わかりやすいな…!…はは、…っく」



俺はミスナと顔を見合わせて、肩をすくめる仕草をみせた。ひとしきり笑って落ち着いた男を見上げる。



「どうしたんですか急に…」



ミスナが当惑して言った。



「はー。あー、いや。悪いな。なんでもないんだ」



男の表情は我に返ったという体だったものの、依然として口元に笑みが浮かんでいる。
大股で近づいてくると、耳元で低く零した。艶やかなテノール。



「兎床、おまえ気に入ったわ。観沙をよろしく頼む」



うたうように云われたその一言は、不思議と切実な意味を持っているように響いた。
(証拠に、今でもそのときのことを鮮明に思い出す。)
理解しきれていない俺と、訝しんでいるミスナを残して男はその場から離れていった。一切振り向くそぶりを見せず、気怠そうに左手をひらひらと振りながら。



その奇妙な教師は、貴嵯宏孝という。










今、理科室で無遠慮に煙草をふかしている、このダメ男だ。



「なあー、貴嵯ー」
「んだよ、うっせえなぁ」
「ミスナが学校に来ないんだ。何か知ってるんだろ。教えてくれ」



窓の外に半分身を乗り出している灰色の大人。その足下で膝をかかえている少年。
どちらもそれぞれ果たすべき仕事をサボタージュしている最中だった。
俺は学業を。貴嵯は書類仕事を。
揃いもそろって、ろくでもない。が、今日はそれを咎めてくれる人間が欠けていた。



「昨日すこし様子が変だったの、その原因も知ってるんだろ」



屋上へつづく階段で、不可解な秘密がうまれた。貴嵯が背中を押したから、俺はミスナを見つけることができたんだ。



「頼むよ、貴嵯。答えてくれ」



頭上から、深く煙を吸い込む音がした。それから風に織り交ぜる音。



「なあ…兎床。おまえは自分の名前、好きか?」



唐突に、貴嵯が喋った。放り出された質問に俺は眉をひそめる。だって、何が関係あるのかよくわからない。



「……なんでだよ」
「いいから、まずはおまえが答えろ。“赫夜”が好きか、嫌いか」



大人というのは理不尽のかたまりだ。でもこれに答えて、貴嵯から何らかの情報が得られるなら致し方ない。正直に答えよう。



「好きだよ。母さんが生きてた頃…俺が生まれる前に、父さんと母さんがふたりで考えた名前だっていうし。それに何より、奇麗だからな」



それが何だよ、と投げやりに問い返しながら立ち上がった。それから貴嵯が頬杖をついている窓、のすぐ横の窓ガラスを開けて、外を眺める。次いで貴嵯の横顔をみれば、呆れるほどぼんやり遠くをみていた。



「おい。貴ーー嵯ーーーっ」
「んんん、うーるせぇよ…。聞こえてるっつーの」



顔をしかめて貴嵯が唸った。



「そうだよなぁ…。つかあいつもそうだから、ああなったんじゃねえの?…あーでもわけわかんねぇえ…矛盾してるぜオイ…」



独り言。俺の存在を忘れているんじゃないか、この男。



「ああもうどうすりゃいいんだよちくしょーー!!」
「う……貴嵯のほうがうるさい…」



ぼそり、つっこむ。
と、貴嵯が思い出したようにこっちを向いた。



「兎床ー。おまえ、観沙からの伝言ききたいか?」



さらりと何気なく云われて、違和感なく考えそうになる。
刹那の一時停止。
え、今、なんだって…?



「は?!…な、え…?伝言なんてあるのかーーっ!?」
「お、おう…落ち着け…。オレの鼓膜が破れる」
「教えてくれ、はやく」
「む…いや、でもやめといたほうがいいぞ。聞いたらよけいに混乱するだろうし」



なんせ言付かったオレが見事に混乱しているんだからなー。
などと忠告されても、この気持ちを抑えるほど強い呪文にはならない。



「いいんだ。どんなことでもいいから言ってくれ」



ミスナのことをどれだけ考えても、俺にはわからなかった。ミスナ自身の言葉がなければ、何も判断できない。
貴嵯はおおきな溜息をひとつ落として、ゆっくりと唇を動かした。



「…『やっぱり今までどおり、名字で呼んでください。ぼくたちはトユカとミスナのままでいたいんだ。』……とさ」



棒読みにさも体力を奪われたといわんばかりに煙草を吸いながら、貴嵯はまたぼんやり遠くを見始めた。まったく、俺のことはお構いなしである。ぱくぱくと金魚になってしまった俺は、またしゃがみ込んで小さく叫び続けた。



「な、ななな何でだよぉおおお」
「ほらみろ、混乱してんじゃねーか。言わんこっちゃない…」



それを見下ろす貴嵯はさらにだるそうに言葉をかさねた。



「まあオレもだけどな。あーあ、笑えねえー」



気まぐれな風が窓から入り込んで、煙草の馨が沈黙をくすぐる。
俺は最後にミスナに会ったときを思い返していた。











(Cor Tauri)



Cor Tauri ...コル・タウリ。牡牛の心臓


09.10/22


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