俺は最後にミスナに会ったときを思い返していた。



チャイムの音に紛れて笑っていた時。聞こえなかったけれど、たしかに視えたあの言葉。『死にたがりが、生きるために翅を千切って閉じ込めてしまうよ』…?
『死にたがり』はたぶん、ミスナ自身のことだ。翅、は誰の翅だろう。否、そもそも翅は何を意味している?嗚呼、俺が比喩表現を読み解くの苦手なこともミスナはわかっていたんだろうな。気付いて欲しいのに気付いて欲しくない、矛盾の結果がアレだったんだ。
俺はミスナのことを知らない。ポラロイドが映しはじめる前の、塗りつぶされた曖昧なミスナしか。
兎床赫夜を求めるとき、拒むとき。琴線は慄えていた。でも俺は手をこまねいて。



「…こわいんだろ」



呼吸が止まる。考えることを阻んだのは、貴嵯の声だった。聴いたことがない、と錯覚したトーン。わずかな驚きから俺は顔をあげる。貴嵯が躰ごとこちらを向いて、慈愛と悲哀と優柔の視線を落としていた。そこで驚きは大きなものに変わった。何故だろう、はっきりとしたことはわからない。貴嵯の様子が、まるで泣いている少年のように。恐い?怖いって、



「なにが、」



誰が。じわり、と滲む不安を抱いて俺は声を震わす。



「おまえはまっすぐだから。観沙は、それを恐がる。おまえのあたたかさを、自分が奪ってしまうのを」



ミスナが俺に対して持つ恐怖?



「…うそ、だ」
「言ってたんだ、本人がそう」
「冗談だろ。こわい、って…だってそんな、俺は何も」



どこを見たらいい。貴嵯の真剣な双眸を視界に映せば、折れてしまう。
俯いたら膝の上にちっぽけな自分の手のひらがあった。



「わかってんだろ、兎床。おまえは観沙から“遠い”んだよ」



大人という生き物は、こうして現実を目の前に広げる。そういう特性に輪をかけて、貴嵯宏孝はリアリストだ。やはり、好きになれない。



「このまま放っといたら、あいつはますます遠くへ逃げるぜ」



挑発。さあ、どうする。そんな風に切り込まれたって。



「だって…俺が近づこうとすれば、余計逃げるじゃないか」
「無理にでも、」



唇を半開きにして、また俺は顔をあげた。貴嵯はそういう風にして、中途半端な言葉を餌にしている。



「無理にでも捕まえろ。兎床赫夜の熱は簡単に奪われたりしない、って教えてやれ。それはおまえにしかできないことだ」
「ミスナを傷つけるのは厭、「…だからッ!この先、これ以上傷つけないためにそうすんだろ!!」



怒号に遮られて、無意識に肩が跳ね上がった。



「オレは全部わかってた。観沙が、青が壊れていくのを一番近くで見てたんだよ!だけどオレが手をさしのべたってあいつの心は救えないんだ…ッ!オレにできることにも限界がある。オレじゃだめなんだよ……っ」



だめなんだ。を繰り返して、貴嵯は俯いた。気丈なはずの大人が震えているのを目にして、俺は言葉を失う。静寂。それから深呼吸。



「悪い」



貴嵯は一言だけ落として、黒板近くまで歩いた。手に持っていた煙草をいつも通りマッチの燃え滓用の缶に捩じ込み終えると、こちらに一瞥くれる。そしていくつも並んだ黒いテーブルの中で一番俺に近いところを指し示した。



「椅子に座れよ」



言われるがままに、テーブルの上に載せられている四角い椅子を床に下ろす。1つのテーブルにつき4つほど載っているが、それをそのままにしておくのも目障りだったので、次いで他3つ下ろした。そのうち最後に下ろした椅子に腰掛ける。
貴嵯は黒板近くにある教師用のテーブルに寄り掛かっていた。



「オレは、おまえに『忘れろ』と命令すべきなんだ。オレが言ったことすべて忘れろ、ってな」
「なっ…ふざけるな。そんなこと、」
「できないだろ。オレだってこんなこと言いたくねえよ。さっきは、…ああ言ったけど…」



口籠もる。今日の貴嵯は、すこし変だ。



「兎床、オレがいつもおまえらに云ってること、憶えてるか」
「ん…あれ?『教師は生徒を平等に扱わなくちゃいけない』って」
「そうだ。誰にも云ってないけどな、続きがあるんだよ」



苦笑いをみせながら、貴嵯は呟いた。



「教師は生徒を平等に扱わなくちゃいけない。…けどオレ個人にとって、おまえらは特別だ」



笑っちゃうよな。結局、不平等なんだぜ。
そう囁く、貴嵯の姿は寂しそうだった。俺に聞こえても、聞こえなくても。どっちでもいいみたいに、貴嵯は唇を動かす。



「しかも本当は、観沙青が特別なんだ。ひどい大人だろ。ごめんな、兎床」



俺は黙って首を横に振った。何も知らないのに、不思議と。それが仕様がないことに思えたから。
迷った末に、問いかける。



「隠してることはそれだけなのか」
「いいや。もっとだ。秘密にしてることはいくらでもある」



目を伏せて、貴嵯が声を落とした。



「だがそのほとんどが、オレが教えていいことじゃない。観沙が、云うべき事だよ」



それはつまり、二人だけの秘密。
考えれば考えるほど、悔しくて淋しい。俺だけがわからない。観沙の痛み。
――『いつかぼくを置いて帰ってしまうの』
あの言葉の理由さえ、解らない。



「…しりたい」



観沙の理由を。せり上がる波の飛沫が言葉になった。



「さっき言ったとおり、オレは観沙を贔屓する。おまえが望んでも、あいつが望まないことは、しない」



貴嵯は冷ややかな声を返してくる。



「会うことも、知られることも。あいつはまだ望んじゃいない」



それが事実だ。と、貴嵯の声が床に叩きつけられる。
空白のうなりのあと、チャイムが響いた。聴き慣れた当たり前のメロディさえ、厭わしい。貴嵯が扉近くまで歩き出すのも止められず、俺は俯く。



「おい、兎床」



声をかけられ、顔をあげる。と、貴嵯が扉を開けながら廊下を顎で示した。



「次。おまえのクラスだぞ、オレ」
「え…ここでやらないのか」
「バーカ。今日は教室で座学だっつーの。人の話ちゃんと聞いてろよな。ほら、椅子片付けろ」
「はぁ…まったく、ややこしい授業だ…」
「このやろう…。オレが懇切丁寧に教えてやってんのに、スルーしてんのはおまえだろうがっ」
「否、俺だけじゃないよ。連絡係も忘れてたんだから仕方ないだろ」
「ああ?理科係はおまえだろ?」
「俺はプリント運びとかだけで、連絡係とはべつだ」
「へえ。おまえのとこの係…弓谷か…。はっはっは、いいぜ…問題当ててやる」
「わー、貴嵯の鬼ー。悪魔ー。ユミヤが可哀相じゃないか」
「なーに呑気なこと言ってやがる。おまえも当てられる運命だ」
「…んなっ!職権乱用だぁっ。やっぱり気に喰わない!」



そうだ。やっぱり、気に喰わない。
俺だけが失楽園の外側で、ただ指をくわえて佇んでいるだけ、なんて。そんなのは厭だ。
椅子を片付け終えて、出口で何故か待っていてくれた貴嵯に近づく。
俺の考えていることがわかったのだろうか。貴嵯は初めて会ったときと同じ、妙にやさしい大人の表情をして、俺の頭に大きな手を置いた。



「なんだよ」



睨め付けて唸ると、貴嵯の唇が楽しげに弧を描いた。ぐしゃぐしゃとぞんざいに頭を撫でられて、俺はたのしくない。



「おまえのそういうとこ、嫌いじゃねえぜ」



灰色のおかしな大人は歩き出して、背中越しに言った。



「オレがなんとかするから。近いうち、観沙に会わせてやるよ」



せいぜい足掻けよ、兎床。



そのテノールと白衣を、俺は早足で追いかける。











(Bull's Eye)



Bull's Eye ...ブルズ・アイ。牡牛の目


09.10/26


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