昨日、ミスナはさよならを言わずに帰った。喧嘩をするのは初めてじゃない。ただ、俺からすればこんなに酷い喧嘩は初めてに近かった。授業中振り返った俺と目が合うと、ミスナは無駄のない動きで顔を背ける。休み時間も、教室移動でも、ものの見事に避けられた。一度も会話無く、6時限目に至る。





「おう?どーした兎床、このスーパー面白いキサ先生の選択授業中に浮かない顔してるなぁ」



ぱこん、と丸めたプリントの束で頭を軽く叩かれる。顔を上げると、楽しげな貴嵯と目が合った。



「楽しい理科だっつーのに、兎床おまえ何を溜息吐いてんだよ」
「いいじゃん、どうせ元から6人しか選択してない上に、今日はその内5人が風邪で見事に全滅なんだから」
「まあそれもそうだな。オレが教えなくても兎床は優秀だし」
「貴嵯の発言は、教師の発言じゃない」
「おまえの言葉遣いも学生らしからぬもんだろう。敬語とか丁寧語とか少しは覚えろ」



笑って白衣のポケットから煙草とライターを出す理科教師の方がより一層間違ってる。ミスナなら頷くだろうな。俺のことも叱りながら、キサ先生も勤務中ですよ。なんて言うんだ。
この場にいないミスナを想像して、溜息がまた深くなる。



「その様子じゃ、観沙が風邪で病欠っての嘘だな」
「!なんでわかるんだ」
「はっはーん。てことは図星か。観沙のやつ、優等生のくせしてサボりやがったんだ?そーだろ」
「う、ん。だからなんで、」
「さてはおまえと喧嘩でもして、顔合わせづらいから逃げたか」
「…大当たりだよ。いいから何で判ったのか教えてくれ」



俺の問いに、紫煙を吐き出しながら貴嵯は唸った。気だるげだ。



「兎床のことは顔見りゃ大体判る。わかりやすいからな、兎床。おまえが一喜一憂するのはテストの結果とかじゃなくて十中八九、観沙のことだし。憂い顔ときたら痴話喧嘩だろ、フツー」
「最後のそれはフツーの連想とは違うと思う」
「そっか?ハハッ、そりゃ悪かったな。他の男子同士はただの親友で、夫婦なのはおまえらだけか」
「ふ…!夫婦とか言うなよッ」
「ああ?今さら否定するな。若いうちは経験だろ。男同士でも問題ない」
「あるだろ」
「生産性なんて、互いが若けりゃ問題点じゃないぜ」
「わかった。わかったから黙ってくれ貴嵯。それ以上話すな」



これも立派な情操教育だろー。などとぶつくさぼやいている貴嵯を無視して俺は窓の外を眺めた。そういえばミスナのお祖母さんが亡くなった時、ここでなぐさめの言葉を探したんだっけ。風が流れていた、この理科室で。
思い出すキスの甘さと裏腹に、今の心は苦々しいものだ。



「死にたがってはいけないよ、か…」
「なんだそれ」
「ミスナが、言ったんだ」
「ふーん。あいつの言いそうなことだけど、同時にあいつがおまえには聴かせないような言葉でもあるな」
「俺が寝てる…フリしてた時に言ってたから」
「おう、盗み聞きとはまた大胆だな。で、誰に言ってたんだ?」



興味無さそうな顔で、好奇心剥き出しの言葉を投げかける。貴嵯も大概、変わった人間だった。



「俺に」
「おまえに?あの観沙がそんなことを言ったのか」
「そうだよ。ミスナが、この赫夜に」



――『ねえ、カグヤ。ぼくが呼んで欲しいのは“青”なんだよ』
だって言わなかったじゃないか。ミスナが俺のことを名前で呼んだのも、あれが初めてじゃないか。そんなの、



「兎床」



暫く黙り込んでいた貴嵯が唐突に小さく叫んだ。



「なんだ、貴嵯」
「授業サボっていいから、今すぐ探せ」
「はあ?探せって、何を」



貴嵯がマッチの燃え滓を入れる缶に自分の煙草を捻じ込んだ。一息ついてから俺の頭に大きな手をのせて、ぐいと視線を合わせる。眇められた双眸に、大人の強さがあった。



「観沙を探せって言ってんだ。全力で、今すぐ。後悔しないように自分の力で、な」
「…んでだよっ。わけが、わからない」
「いつか解る。先生の言うことは聞くもんだ。いいから今すぐ探しに行け。ほら、」



半強制的に立ち上がらせられて、教室の扉の目の前まで押された。抵抗しようとしても、長身で健康的な肉体を持った年上には勝てない。開けられた扉から廊下へ放り出されて、振り返る間もなく背後で扉が閉まった。
あとはもう、どうしようもない。貴嵯の意思をよく理解できないまま、仕方無しに言われたとおりミスナを探そうと、俺は廊下を歩き始めた。










「さあ、」 独りになった理科室―と生徒達は呼ぶ、化学実験室―で貴嵯宏孝は誰にともなく言葉を零した。



「自由なつもりで飛んでゆけよ、青少年」



今はまだ、解るのは翅の動かし方だけでいい。
消え入りそうな独り言を己の手のひらに乗せたが、それは蝶々の標本に似ていて、いとも簡単に崩れ潰れた。煙草の馨りと一緒に、窓から忍び込んだ風が攫っていく。












(いとしいひとのすぐそばへ)








08. 3/15


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