ミスナが行きそうなところなんて解らなかった。否、まずもってそこにはいなかったのだ。何せそれは、今自分が出てきた理科室なのだから。お陰で運ぶ足はスローペース。他の全校生徒は授業中で、廊下を歩くのにも全神経を集中して物音を立てないようにしないといけない、降って涌いたそんな律儀な自分の考えに唇だけ動かして笑った。ミスナの性格がうつったのか、本来の自分ならそんな気遣い、想像する事もなかっただろう。



「ミスナ、観沙 青。みすな、」



4階へ続く階段を上りながら、くるおしい気持ちを吐き出した。囁くような声でも、階段ではよく響く。



「セ、イ…」



最後の一段を飛び越して、踊り場へ足を着けた。刹那。微かな予感に弾かれて、伏せて足元を見つめていた瞳をさっと斜め上へ滑らせる。踊り場を数歩だけ駆けて、スローターン。屋上へ続く最後の階段の上り口、瞼を閉じているミスナがいた。



「ミスナ…?まさか、」



観沙を探せと俺に命令した貴嵯の表情を思い起こす。死にたがってはいけないよ。ミスナが洩らした言葉、リフレイン。まさか、まさかまさかまさか。
逸る気持ちとは裏腹に、自分の動作は遅く、ぎこちなかった。近づいて、ミスナの身体に傷が有るかどうかを確かめる。無い。手首にも、首筋にも、どこにも傷や赤は無い。それからそっとミスナの手首をとった。脈も正常。とすると、



「なんだ、寝てるのか…」



それ以外考えられなかった。呼吸のリズムが穏やかで、顔色もいい。窓から射す光がミスナのまつげを濡らしている。ミスナは一般的な男子どころか、女子よりも綺麗な容貌をしているのに。本人は無自覚で、俺の容貌ばかりを、綺麗すぎる天使だ類稀な美貌で人間をかどわかす悪魔だ、なんて言う。ミスナはまったく、人のことを言えた義理かと、毎度毎度こっちが文句を言いたくて仕様がなかった。



「ずっと観ていたいけど、ここじゃあ無理だな…。授業が終れば人目も有るし。それに何より、」



こんな可愛らしい寝顔を他の誰にも見せたくない。とは、独り言でも口に出来ない。
とにかく、気まずくても今自分が起こすよりほか無かった。



「ミ…じゃなくて…。おーい青、セイってば。起きろーッ」



抑えた声で呼びながら、ミスナの身体を揺り動かす。しかし起きない。もう一度呼んで揺らそうとした0.5秒前、はたと思い直した。もしかしてここまで起きないなら、あの時のお返しくらい出来るんじゃないだろうか。瞼にキス、或いは…。
倍返しの想像をして、顔が熱くなった。いやいや、だめだろう。いくらなんでも寝込みはちょっと。そういえば意外なことにこういったことはいつもミスナからだった。自分からキスとか、そういう機会はあまり無かった気がする。
息を呑んで逡巡していると、不意に目の前のミスナが男子らしからぬ艶のある声を吐息と一緒に洩らした。1秒未満の葛藤の後、欲望が理性に圧勝。我ながら実に情けない。



「すまん…っ」



謝罪の言葉を呟いてから、ミスナの唇に唇を重ねる。重ねるというより触れる、もっと言うなら掠めるだけのようなキス。



「どうして謝るの?」



離れようとしている最中に間近で囁き声を聴いた。吃驚して思わず動きが止まる。
距離はまだ3センチしか離れていなかった。



「ねえ、トユカ。ううん、こっちのほうがいいよね、カグヤ」



その微笑みは、どことなく黒かった。



「み、ミスナ……いつから起きて、」
「最初からだよ。君がぼくを見つけてからずっと」



そんなににっこり微笑まれても、こっちは怯えるしかないだろう。とは口が裂けても言えない。それより早く離れようと身体を引こうとしたけれど、それも儘ならなかった。よくよく見れば、片手で腕を掴まれてさらにもう片方が俺の首にまわっている。
万事休す、だ。



「見事に掛かった」
「あーうー、ミスナくん?どうしてそんなに楽しそうなんだい?」
「うん、あのね。ぼくも頭冷やして考えてみたんだ。カグヤを傷付けず、尚且つぼくも傷付かないで仲直りして、これからもずっと2人でやっていくにはどうしたらいいかなって」
「ほう、それで」



冷や汗をかきそうなくらい、目の前で変貌した大胆なミスナに俺は怖気づいていた。だって物凄く畏ろしい。嘗て無いほど、ミスナの背後に黒いオーラが薄っすら視えている。あれ、観沙青ってこんな奴だったっけ。もっとこう、純朴な感じじゃなかったか。そんな風にぐるぐる悩みながらも、自分のなかでミスナへのいとおしさは変わっていなかった。これも惚れた弱みってやつなんだろうか。
戸惑う俺もお構い無しといった様子で、ミスナはその考えとやらを喋っていたが俺には半分も聞こえていなかった。条件反射で聴こえてるフリをしてしまったのに気付いているのか、ミスナは一層ぎゅっと俺に齧り付いて嫣然と笑った。



「つまりさ、自分に素直になればいいんだよ」
「その結果がこれか」
「そう」
「…ミスナ、」
「それと、これからはさっきみたいに名前で呼んでくれないと」



6時限目の終りを告げるチャイムが鳴り響いて、ミスナの声は掻き消されかける。だが皮肉な事にミスナのくるおしい感情は視覚でしっかりと俺に届いてしまった。俺の身体をそっと突き放して、あの時と同じ、崩れそうな冷たい笑顔の残像。



「死にたがりが、生きるために翅を千切って閉じ込めてしまうよ」











(君を思う。逃れられない切なさ結わえて)









08. 3/15



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