閉じた瞼に柔らかな温もりが触れた。そっと、不意に。開け放した教室の窓からすべり落ちた風かと、一瞬錯覚するほど自然なものだった。まだ眠りに嵌ってはいない。意識はしっかりしていて、隣に座っているミスナが口付けたことくらいは容易に認識できる。けれど瞼は開かずにいた。空気を伝うミスナの感情がぴんと張り詰めていて、ああ今俺は目を覚ましてはいけないのだと。そう感じたから。



「ねえ、君。死にたがってはいけないよ」



しとしと、雨樋を伝って落ちるような言葉。染めて滲んで。でもミスナ、違うだろ。死にたがりは俺じゃない。いつも柔らかく笑って、俺に振り回されてる優しいお前だ。お前が、死にたがりの道化なんだ。
独り言なら他所で言え。今すぐ跳ね起きて、そんな突き放すこと言えたら俺はもっと優しくなれるのかもしれなくて。だけど、俺がミスナを自由にしたら、きっとどこかで泣いてる背中を視ることになるんだ。俺にだって、こうやって眠っているフリでもしなければ、秘密のまま。



「死にたがっては、いけないよ」



日に焼け伸びたテープのように、しゅるりしゅるりと流れていく。観沙 青という少年を録音して、吐き出して。それでもまだ空っぽにできない。
ミスナの手が俺の髪を撫ぜた。届くよ、届かないね。自分のなかで心の声が小さな喧嘩。起きようよ、抱き締めたいよ。起きたらだめだ、抱き締めたくても。



「天国へは帰らないで。ねえトユカ、もう死ぬの?いつ死んでしまうの?いつかぼくを置いて帰ってしまうの」



帰らない。死なない。置いてなんかいかない。胸を抉るような揺らぎが、閉じた瞼の裏側でちらついた。冷たい水に浸されて、身体も心も熱を奪われていく。叫びたくて、泣きたくて。俺は寝言を装って、小さくくぐもった悲鳴をあげた。
一時、離れたミスナの手が今度は頬に触れて、するりと逃げた。瞼、髪、頬、唇、首筋。滑らかで細い指先が心地良い。



「すき」



掠れた声にどきりとする。ミスナの声はもっと綺麗だ。一体何がここまでミスナを追い詰めたのか。喉元で留まった問いに笑いたくなった。ああ、俺か。兎床 赫夜が原因だな。



「すき。すき、すき、すき」



段々と抑揚がころされていく。もうこれ以上、崩れかかった愛しい人を自由にはしておけなかった。



「なあ、ミスナ。俺はここにいるよ、」



瞼を開けて、ミスナの眸を探す。ぶつかった、そう思うより速く、みるみるミスナの顔が暗くなっていく。そんな、恐いものを視るような顔はやめてくれ。ほんの数秒前に放った自分の言葉を失くしてしまうくらい、俺もミスナも傷ついていることが今、やっと分かったから。
俺の首にかけたまま動かせないらしいミスナの手のひらを、出来るだけ優しくはがして俺は曖昧に微笑んだ。こういう時、どういう顔でどんな言葉をかけていいのか判らない、自分の不器用さが疎ましい。



「ミスナが望むだけ、傍にいる」
「聴いてたの、ぜんぶ」



頷いた俺を見て、ミスナは螺旋を巻いた人形のように表情を作り始めた。少しずつ、いつもの柔らかい笑顔に戻っていく。



「ひどいなぁ。恥ずかしいから今度からは、起きてるなら起きてるって言ってよ」
「ミスナ、」



厭だ。そんな作り笑いなんか。ミスナが無理してるところなんか。俺の目の前で、仮面を堂々と持ち出すのはやめてくれ。
たった一度でミスナをぐちゃぐちゃにしてしまいそうな感情が自分のなかで咲いていく。それにつられて曖昧な微笑も苛立ちに似た真剣な顔へ変わった。



「いつから起きてたの?トユカ」



人間らしい表情をして俺に問いかけたミスナを、俺は自然に睨みつけていた。ミスナの手は俺の手の中でぎりぎりと締め付けられている。



「ミスナ」
「なに?」
「無いことになんかならない。俺が聴いたことは、俺のなかに残るんだ」
「どうしたのトユカ、可笑しいよ」
「可笑しいのはミスナだ。俺にそんな作り笑いは通用しないっ。いい加減やめろよ、」
「何を」



氷が顔にぶつけられたかと思った。何を。その冷ややかなミスナの声は、削りすぎた鉛筆に似ている。鋭い分細く脆くて、すぐに折れてしまうから。何を。耳元でガンガンとリピートされる言葉は、現実とても静かなものだ。
ミスナの澄んだ瞳が俺を貫いていて、それはそれは、鏡に映った自分を視るような酷い違和感を覚えた。



「何をやめろって?無理をするな、なんて言われてもね、ぼくはどうしようもない」
「ミスナ…」
「ごめん、不用意に喋ったぼくが悪かったよ」
「違う!観沙、」
「もういいんだ。最初から、トユカに解ってもらおうとは思ってなかった」



立ち上がって足早に俺から離れようとしたミスナの腕を掴んだ。自分も半分立ち上がって、しがみ付くような格好。



「待てよ、観沙ッ」



顔を背けたまま、囁かれた悲しみが届く。



「ねえ、カグヤ。ぼくが呼んで欲しいのは“青”なんだよ」



何も言えないうちに、振りほどかれたこと。認識したときにはもう、ミスナの姿は教室に無かった。(愛しいセイ。君こそいなくならないでくれ)















(残されたのは君の祈り)









08. 3/15



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