「さて、それできみはここからどこへ行こうと言うんだね?」


そう、唐突に彼が言ったので、おれは驚いて(、夢をみている最中、自分の行動で自身の目を覚ましてしまったかのような感覚に。)一瞬だけ動きをとめた。
彼はおれを押しのけて隣に立ち、黒いレースのカーテンをひいた。ガラス越しに映った、そとがわの曇り空を眺める。


「おれは何も言ってないんだけど」


くちびるをとがらせて、反論する。(そんな子供の気分になって喋っただけで、実際のところおれの唇は自然だった。)


「そうか。だけど、窓は出口だ」


彼は人差し指を窓に向けて、さもありなん、と言いたげな顔つきをした。
おれは眉根を寄せる。


「ドアならまだしも、」
「それは通常の場合だろう。非常時においては、窓も立派な出口さ」
「ずいぶんな出口だな」
「非常口というのは得てして、通常時に使用しているドアよりもずっと、そこから出ることに抵抗を覚えるようなつくりなんだよ。位置的にも、始末に負えないことが多い」
「否、おれが言ったのはそういうことじゃなくて」


第一、今が非常時だとも思えない。


「常識にとらわれてはいけないな」


何を思ったのか、彼はそう言って肩を竦めた。
おれもお返しに溜息を吐きながら頭を振る。


「あんたの常套句はけっこう。聞き飽きた」
「おや、ジョークは嫌いだったか」


まさかジョークとは思わなかったので、おれは約2秒間、口をぱくぱくと動かすハメになった。無論、おれには鯉の物真似をするような趣味はない。


「それで結局、きみはここからどこへ行こうと?」
「どこへも行かないよ」
「なんだ、行かないのか」


がっかりした、と付け加えて、彼はつまらなそうにカーテンの裾をいじった。
長ったらしい沈黙の水位がひたひたと踝のあたりまで迫り上がってきたので、おれはそれを払おうと口を開いた。


「そもそも、あんたは誰?」


すると彼はカーテンから離れて、うなり出す。


「僕が誰か?誰って、嗚呼。そういう質問をされるとは、考えてもみなかった」
「当然の疑問だろ。おれはあんたの名前も知らない」


おれがそう吐き捨てるのを聞くと、彼は一呼吸おいてから、(とても浅い深呼吸の後)
きらきらとさんざめく(それこそ、さわがしい星屑みたいだ!)視線をこちらに投げかけた。


「名前があればいいのか?」
「あるのか?」


訊ねておいてこういうのも何だけれど、彼が本当に名を持っていると期待していなかったから、おれは内心ひどく驚いた。
彼は単純に、明快に、【道化】という通称を持っていそうな雰囲気をまとっていたから、尚さらだ。


「あるさ!いいかい、僕はね。カルデ・ローデというんだ」


カルデ・ローデ、という形に限りなく近い飴玉が、彼の舌によって転がされている。
瞬間的に、そんな響きが、空気に広がっていた。


「カルデ・ローデ?」
「そう。正確なぼくの名前さ」
「ふうん。可笑しな名前だ」
「道化の名前がまともだったら、それこそイカレてるだろ」


なんだ。一応、道化でもあったのか。
ほんのすこし、拍子抜け。


「きみ、ほんとうにどこにも行かないのか?」


話題を戻された所為で、おれは僅かにたじろいだ。


「しつこいな、カルデローデ」
「僕は探求心に満ちあふれているんだ。多少、執拗であっても寛容な対応をしてくれ」
「多少!多少ね。言っておくけれど、おれはこれでも寛容な方だぜ」
「そうか。それで、寛容なきみはここから、」


と、言葉を中途半端なところで止めて、彼は窓を開けた(いとも容易い作業だったろうに、それは大仰な仕草で行われた)。それからまたおれへと向き直る。


「ここから、どこかへ行くつもりだったんだね」


窓を指し示しながら、彼は真剣な面持ちを保っている。今度は断定的な物言いだった。
おれはそれで、かちんときた。


「冗談じゃない!おれはどこへも行かない、行くつもりもない!」
「違うな。きみは…」


躊躇いの反芻が、彼の喉元から窺えた。
そういうことも長く感じるような1.5秒と、その後。


「きみは、新しい場所に行こうとしたんだ」


彼の言葉に、頭をガンと殴りつけられたような心地がした。


「そんな、そんな訳があるか」
「常識的に考えたまえよ」


非常識を食べて生きているようなカルデローデに、おれはとてつもなく阿呆らしいことを言われている。


「非常口の前にくるのはどういう時だい?そうさ、そこから出るときだよ。それ以外にない。きみは、そこから出ようとしていたんだ。通常一般的なドアじゃなく、非常時専用の、窓という出口から」


彼はそれだけ言って満足したのか、窓のそとを見つめだした。


「おや。晴れてきたな。こりゃ絶好のお出かけ日和だ」


それを聞いても、おれは何も言えずに(首も動かせずに)突っ立っている。
彼はおれの無様な姿をみて、口笛を吹きながら目を見開いた。(カルデローデは実に器用だ)


「ちぇっ。誰もきみに魂を売ってくれなんて言わないぜ」


どこか憎めない舌打ちの、付属品じみた厭味をおれは聞き流す。


「ねえ、カルデローデ」
「カルデ・ローデだよ。さっきから言おうと思ってたんだけど、僕の名前を勝手に繋げないでくれよ。ちゃちな魔法遣いの呪文みたいだから」
「どっちだって良いだろ。とにかく、おれがどうするべきなのかを教えてくれ」
「良くはない!…どうするべき?どうするべきって、そりゃあ簡単だ」


簡単だよな?と独り言でクエスチョンを付け足している。目の前の彼はどうも頼りない。


「きみは新しい場所に行けばいいんだ。一分一秒でもはやく、ね。それで解決。簡単さ」


彼がにんまりと嗤うので、おれは余計不安にかられた。


「だってここへは戻ってこられないんだぞ。一度出たら戻れない。もう二度と」
「だから?」


「だから?って、あんたなぁ…!」
「だから、何だって言うんだよ。僕にはわからないな。戻れないから、何?」
「戻れないから、戻れないから…だから…」


戻れないから、どうなんだろう。


「いいじゃないか、戻れなくたって。そんなことを怖がっているようじゃ生きていけないぜ」
「そんなことって…、何言ってるんだ!重要な問題だろ!」
「だってねえきみ、時間も同じじゃないか。今の、この一分一秒とか、呼吸している刹那とかって、もう戻らないものなんだよ。そんなことをきみはいちいち気にしているのか?そういうことも重要な問題だっていうのかね?」
「…」
「常にきみは戻れない場所をあとにしてるのさ。後ろ背に戻れない場所ってやつをたくさん置いて生きてきてるんだ」
「…それは、」


それは、考えてもみなかった。
おれが呻くのをみて、彼は呆れた風に嗤った。


「まあ時は金なりとはいうけども、そんなことを四六時中気にしているようじゃあ、どうしようもない。神経質にもほどがある。道化じゃなけりゃイカレちまうよ。
ああ1秒過ぎた!もうあの1秒前には戻れない!なんてね。できれば僕は考えたくないな、とてもじゃないが、気が滅入る」


窓のそとから、間の抜けた鳥の啼き声が舞い込んだ。
それを合図に、彼はおれの手首を掴む。


「そうとわかったら、善は急げだ。さあ行ってくるといい、きみの新しい場所に!」


体が持ち上がる。なにか、有り得ない力によって、おれは動かされている。


「待て!カルデローデ!」
「カルデ・ローデだ」
「ひとつ訊き忘れたんだ!あんたはどうなる!?」


彼がおれを窓のそとへ投げ飛ばそうとしているのは明白だった。おれの問いに、彼はその勢いを微かに弛める。


「僕はどうもならない。もしかしたらきみを探しに行くかもしれないし、或いはここできみを待つかもしれない」
「待つって、だって、戻れないのに」
「暗喩だよ。分からないかい?さようならって意味さ」
「探しに、っていうのは?」
「それはそのままの意味だね。万が一、気が向いたら。…そうだな、きみが流れ星に7回、カルデローデと唱えることができたら、会いに行こう」
「7回だって?!」
「そう、7回だ。きらりと光って落ちて消えるまでの、短いみじかい、瞬きするほどの間に言うんだ。7回ね。それより少なくても多すぎてもだめだぜ。こればっかりは僕の名前じゃなくて、ちゃちな呪文みたいに聞こえてもいいだろう。カルデローデが、カルデ・ローデを呼ぶ合図なのさ」
「カルデ・ローデを呼ぶ魔法か!」
「まあそういうことにしておこう」


と言いつつ、彼はおれを乱暴に振りかぶった。(まるで、ボールを振りかぶるみたいだった。最初、カルデ・ローデのどこにそんな力があるのか不思議でしかたなかったけれど、ひょっとしたら彼は魔法遣いなのかもしれない、そう考えると些末なことは気にならなくなった。)


「さて、それできみはどこへ行きたい?」
「(新しい場所だ)」


喋ろうとすると舌を噛みそうだったので、心の中でおれはそう答えた。


「言いたいことがあったら聞いておこう。きみ、これが最後の問いかけだよ」


おれはほんの刹那を戻れない場所に押し込めて、心の底からつよく念じた。


「(また会おう、カルデ・ローデ)」


彼は愉しそうに声をたてて嗤った。


「ありがとう、きみは最高だ」


あの時、ほんとうはおれも「ありがとう」と言いたかったけれど、どうせなら再会したときの楽しみにとっておこうと思ったのだ。
彼がおれを放り投げる。
おれは窓のそとへ飛び出していた。飛距離はどこまでも伸びるような気がした。
新しい場所にたどり着くまで、長い旅を経るのかと思っていたのだ。


しかし実際のところ、それは瞼を開けるのと同時に終わった。





新しい場所、の駅は明確に、シーツの海。
病院のベッドの上だった。










* * *






「ねえ、おじいちゃん。どうしてずっとお星さまをみてるの?」


稚い女の子が問いかける。
老人は答えない。口元に笑みを浮かべて、ゆっくりと魔法を口にする。昔、若い頃だれかと交わした約束を思い出して、流れ星をさがす。悲しいときに、嬉しいときに。ずっとそうして生きてきた。ずっと、ずっと。


(7回は、言えなかった。)


「7かい?7かいってなぁに?」


老人は答えない。口元に笑みを浮かべて、目を細めて(、星が流れるのをみつけて。)これ以上ないくらい速く、ゆっくりと魔法を口にする。


(カルデローデ、カルデローデ、カルデ・ロー、)


ゆっくりと、彼とはじめて会った場所に戻っていく。








カ ル デ ロ ー デ  




091206

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