「ねえ、」


壁際の少年がゆっくりとこちらへ頭を向けた。睥睨するのは、少年にとっても無意味のはずで。その視線を絡め取るこちらの言動も無意味だった。その判断に誤謬はない。


「なんだ」
「あんた、俺の夢を覚ましてくんない?」


滑らかな動きで少年が手を翳す。こちらにはただなんとなく上げられた手、としか視認できない。恐らく少年からすればその手はこちらを掴もうとして伸ばした手だろう。月に触れようとする感覚と手のひら。気だるい雰囲気を色濃く纏って何を考えているのか把握させない少年も、眸だけは明確な悲しみを湛えていた。


「知らないな。お前の夢なんて」
「俺さあ、いつも思うんだ。此処も、あんたも、この手も。全部、夢だろ」
「へえ」


苦しい顔をして口元だけ笑みを作ろうと足掻いている少年も。夢だというならそうかもしれない。ただそれが誰の夢なのかがはっきりしていないだけ。肯定も否定も、この場合は必要なかった。


「この前あんた、何かすげー面白いこと言ってたよな」
「さあ。お前は、おれの話なら何でも面白がるから、いちいち憶えてない」
「そうだっけ?俺、今日はあんたの話が嫌いだって思ってた」
「それはどうも。可愛くない返答ありがとうございました」
「…思い出した」
「何を」
「あんたさ、煙草の吸い過ぎでバカになったわけ」
「冗談だ。ついでに教えとくが、煙草が切れると集中力が落ちるってだけで、バカにはならない。…たぶん」


どうだっていい。少年が不貞腐れて吐き出したものも、拾わずにいた。半分独り言だ。こちらに撃たれた弾丸じゃない。


「『かわいそう、っつーのは人間の醜さが露呈する言葉だ』って」
「…まあ、そんなことも言ったような気はする」
「言った」
「はいはい。で、それのどこが面白いんだ」
「本当だったから」


脱力しきれない心地で少年を観る。少年はもうこちらを視ていなかった。


「何だそれ」
「あんた、鋭いよな。本当だったよ。かわいそうって、自分が優位にいるから言えることだ」
「当たり前だ。自分まで同情される立場にいて『かわいそう』なんて誰かに言うことは滅多にない。あるとすればそりゃ侮蔑でも込めてるんだろ」
「あんたも、」


無造作に投げ出された腕を視線で追って、次の弾丸を待った。予想される言語なら、もう聞き飽きているから傷つかない。


「あんたも、俺のこと『かわいそう』とか思ってんだ」


予想通りだ、もう何度も聴いた。少年と接するうちにそういう奴だと慣れて。疵が重なっても、痛みなんか無くして。人間としては傷つかなくなっている。少年を特別な感情から大切に思う、年若い青年としてはどうなのか判らないが。


「さあな。存外、『かわいい』かもしれないぜ」
「気持ち悪いな」
「ああ、おれも自分で言って気持ち悪くなった」
「嫌いだよ、俺。あんたなんか」
「そうだろうな。患者と医師だ、相性悪いに決まってる」


こちらが触れると少年は決まって泣きそうな顔をする。だから適度に距離を置いた。
回診の時は必ずベッドから離れている少年の意図は、職業柄何となく判っている。壁際に膝を抱えて蹲っているのも、敢えて注意しない。具合が悪いと床に倒れるようにして寝そべっている時もあったが、それを起こしたことはなかった。どうせこちらが病室から出て行けばすぐにベッドに戻るのだ。


「俺、いつになったらあんたと対等になれるの」
「ここを出れるようになったら、な」
「そのカルテに俺のこと全部書いてあるんだろ」
「カルテだからな、他の患者と同じくらい書いてある」
「厭だ。消して」


子供と同じだ。駄々を捏ねて、届かないものに触れたがる。込み上げてきた吐き気が、異常な恋慕感情の所為だというのが、大勢の精神患者と接してきた医師としてはどうしても認めたくなかった。情欲を、単なる知識や人体メカニズムとして捉えてきたことで、男色になるスイッチでも入ったのか。可笑しな話、自分に対して客観的になることが面倒だった。今さらもうひとり、自分という患者を増やす気になれない。


「あんたはそうやっていつも俺に気安く触るんだ。肩とか手とか」
「悪かった。今度から気をつけるよ」


それは幻覚だ、と言うのは今でなくてもよかった。


「ねえ、俺はあんたが好きだよ」
「…悪いな」
「俺のこと嫌いなの」
「いいや。そうじゃないから受け取れない」
「何それ、難しいこと言うな」
「いいんだよべつに。解らなくても」


かわいそうな男だって笑ってればいいんだ。
そんな諧謔をふと囁いた。この距離では届きやしなかっただろう。


「あんたが夢を覚ましてくれればいいのに」


少年が伸ばした手を取らず、


「おれみたいな藪医者には、出来ない」


苦しみも悲しみも押し隠そうと口元だけで不器用に笑った。褪めない痛みを誤魔化すつもりで、掻き乱した思考を閉ざす。抱えたカルテに書かれた現実は消えないままだ。








煙草と林檎とカルテ











080413


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