離れることはできない空気や地面のコンクリートから、夏の熱気が照り返す。全身はそんな日射しを受け、この島国独特の湿気を恨んだ。暑さのせいで呼吸が詰まるような心地さえする。
用事を終えて帰路についた昼下がり、駅のホームで黒田は立ち尽くしていた。本来なら、人波を縫って足を進め、何の気なしに改札を通りバス停まで急ぐ。そのはずだった。
予定していた午前の用事が思いの外、薄い内容だったのがいけない。やるべきことが概算よりもはやく終ってしまったことに、高校生という年頃なりのつまらなさを感じ、夏休みで飽和した退屈を悪化させた。自宅に帰るべき時間まで、まだまだ余裕がある。そう思うと改札に向かう足も重たく、いっそこのまま別の電車に乗り込んでしまおうか、とさえ思案してしまう。ICカードにチャージされている金額を使い切るのもいいかもしれない。馬鹿げた行動だとは思っても、それを止めるような人間は黒田の隣にいなかった。


しかしホームの暑さに慣れてしまった今、再び過剰に冷房のきいた電車に乗り込むことは躊躇われた。激しい寒暖差で体調を崩しやすい自らの体質を考えれば、自殺行為という冗漫な表現も当てはまる。昼食をとっていない今、体力もあまり残っていなかった。
やはり今日はおとなしく帰ろう。自分の家で退屈を持て余すのにも、もう慣れたはずだ。何だったら勉強をしたっていい。
そう自らに言い聞かせながら歩み、改札を抜ける。それから数歩進み、未練がましさを自嘲しながらも、右側前方に大きく張り出された路線図に視線を投げた。するとその下方、切符売り場のあたり、黒田には見覚えのありすぎる制服が目にとまった。
今年のはじめに編入してからずっと通っている高校の、一風変わった色調の制服。視界の少女は目的の駅を路線図から探し出そうと横へ前へ身体を動かし、水彩のように淡い青紫のスカートとリボンタイを揺らしている。
もし困っているなら。どうせ自分は暇なのだから、と黒田は青紫のネクタイを少しだけ弛め、薄い灰色のスラックスを穿いている脚を動かした。


「あの」


上級生である可能性を考慮して、汎用性のある言葉をかける。
少女は疑念を抱きながら、といった感じでゆっくりと黒田の方へ顔を向けた。その少女の顔を見て、黒田は思わず声をあげそうになった。見知った顔。クラスメイトの永江だった。
永江の方も想定外であろうクラスメイトとの遭遇に、驚きを隠そうともせず、目を見開いて言葉を落とした。


「黒田くん?」


永江の声は高すぎることもなく、よく透るくせに少しだけハスキーで、綺麗だ。スピーカーから流れる電車の案内と被っても、黒田の耳にしっかり届いた。


「どうして…こんなところに。学校にでも行ってたの?」


夏休みに制服姿でいるのを見れば、誰しもそう思うだろう。
柔らかな表情で問いかける永江を暫し見つめ、黒田は唇を開いた。


「いや、大学に」


行ってきた。…そう続けなくとも理解してくれればいい。
面倒くさがって短く言葉を切るのは黒田の悪い癖だった。そういう人間だ、と周囲に理解されてからはいくらか友人もできたし、不自由はしない。よりよいコミュニケーションをとるためにはもっと喋ることも必要だと理解してはいたが、やはり面倒なのでそのままにしている。


「…オープンキャンパス?」


周囲の人間のなかでも、永江は不思議なタイプだった。こちらが答えずとも熱心に話しかけてくれるし、含んだ言葉を探し当てて提示する。それが心地よかった。何故自分にここまで寄りついてくるのか訝ることも多いが、それで疲れたり厭な思いをすることは滅多にない。
だから、声をかけた同校の少女が永江でよかった、と安堵もしていた。
嫌いではないのだ。うまく、続けられないだけで。今日はこちらから近づいたのだから、努力してみようか。そう思い、首肯ではなく唇を動かした。


「ああ。…それが思ったより早く終って、暇になってた」
「そうなんだ」


永江が微笑むのをみて、言葉を発した甲斐はあった、と何気なく満足している自分に驚く。
他人の名前を憶えない性格だから、つい1ヶ月ほど前に名を知ったような少女。その存在が黒田にとって奇異に映るのは、黒田の心のなかで永江が誰よりも広く場所をとっている所為だと、まだ気付きたくない。
霧のように広がる感情を掻き消そうと、言葉を抛つ。


「君こそ、学校にでも行くの」


制服を着ているのはお互い様だ。言葉尻にそんな意図を滲ませているのに気付いてか、永江は曖昧に首を振り苦笑した。


「わたしもね、オープンキャンパス行く予定だったんだけど。寝坊しちゃって、電車乗り違えたりして。もうこんな時間だし。あきらめてどこか遊びにでも行こうかな、って悩んでたところ」


「馬鹿みたいでしょう?ほんとダメなんだ、わたし」そう続けて笑いながら背の高い黒田を見上げる。
そんなことはない、と心の底から思い、言葉を探すが、またしても喉元にこみあげてきた得体の知れない感覚のせいで、簡単な否定を口にするのも苦労した。


「いや、…」


夏の熱風が頬を撫でたからだ。やっと声になった否定に安心する間もなく、脳内の自分が焦燥に駆られて叫んでいた。
たとえ僅かに顔が熱い気がしても。それは夏のせいなんだ、と。けれど言い訳にしかならない。


「…黒田くん?」
「そういうところがあっても、悪くない、…だろ」


せめてこんな動揺を永江に悟られなければいい。自然な素振りを装って顔を背けたが、作為は隠し通せなかっただろう。


「え…?」


永江にとっても、想像もしなかった言葉だったかもしれない。伝わってくる狼狽が、そう思わせる。


「永江、昼は?」


つい数秒前に放った気恥ずかしい台詞を払拭したくて、顔も見ないまま投げやりに声を鳴らした。


「え、あ…。まだ、だけど」
「じゃあ行こう」
「え…!…黒田くん…っ?」


黒田は永江の方へ一瞬だけ振り返り、当惑している眸を覗いてから再び前へ向き直って、有無を言わさず歩き出した。少年の足音と、それよりも軽く急いでいる少女の足音が背後に加わる。


駅から出ると、夏の高い空が眼前に広がっていた。白い雲と青い空のコントラストが鮮烈だから、黒田は夏が好きだった。歩きながら見上げて、照りつける日射しに目を眇める。
飛行機雲がほそく、青を横切っているのがやけに目立っていた。永江は斜め後ろを歩いている。ふと、気付かれないように振り向くと、永江も空を見ていた。


「…ありがとう」


永江が呟くのを聴いて、黒田は風に翻る水彩のタイへと視線を移す。
きっと今は、言葉を返す必要はない。
あとで聞いてみよう。どこの大学へ出向くつもりだったのか。その答えがもし自分と符合したならいい。そんな風に思いながら、まだ素直になれない感情を胸の奥へ押し込めて足を速めた。
どこからか、うるさいくらいに明るい蝉の声が響くのを受け止めて。










   




( すこしずつ、ひらいていく。 )


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