「黒田くん、もしわたしがあなたの所為で明日消えていなくなったら探してくれる?」


冗談みたいな言葉はいつも通り、わたしの唇からすべり落ちてく。そして瞬間からこの声はあなたへ訪れるだろう。跳ね返る空気の透明度だっていつもと変わらない。わたしはあなたの、その無言が恐かった。





元々、“明るく誰とも喋る”ようなタイプではなかった。彼はいつも一番後ろの席で、持て余した休み時間を握りしめた携帯電話で潰していく。熱心にメールを打っているわけではないらしいから、その携帯に対してさえも退屈を覚えているのだろう。わたしはそんな彼の姿に、ああ今日もまた誰にも届かないところで生きているのだ、と安堵していた。
彼は反応が薄い。話しかけても返答は少なく、頷く程度の意思表示か、或いはボリュームのない視線を投げつけるだけ。だから誰が彼に近づいても、彼の世界に映らない。わたしだけが知っている。彼のことを、大多数の人間が知ることはない。この情報と感覚はわたしだけのもの。わたしから見た彼は、わたしだけの彼。




「ねえ。黒田くん、女子は嫌いなの?」




1ヶ月くらい前、誰とも馴染まない彼に一度だけそんな愚問をつきつけたことがある。その時の彼は今と変わらず、男女関係なく打ち解けていなかったのに。女に生まれたわたしが声をかけているから寡黙なのかもしれないと思った。わずかな不安から。狂おしいほどの懐疑から。




「どうして」
「…どうしてって……それは、」
「違う」




違う。たった一言の否定表現。
滅多に聴かない、はっきりとした彼の声音は、ひどく冷たい感触でわたしの胸を震わせた。 彼が持つ何もかもが、気持ち悪いくらいに美しく視えて。 わたしのなかの彼に対する固執がしどけない容で押し広げられていくのがわかった。



そうしてそれと同時に。わたしは彼が、恐くなった。








あの時とよく似た状況にある。廊下で行き逢った彼と視線が絡み、行動も氷る。踏切で隣に立つ人に話しかける心地で、わたしは求める距離を口にした。




「黒田くん」




それは途方もない尺度で云うところの、ゼロに等しい。




「もしわたしが、あなたの所為で明日消えて」




彼はわたしを視ている。けれど、見ていない。




「いなくなったら探してくれる?」




わたしは知っているのだ。彼が言葉を返さないことも。
知っているから一歩近づいた。それは実質的な距離。




「ねえ、女子が嫌いなのかって訊いたときに、違うって言ったよね」




彼は動かない。よくわからない眸を向けて、わたしが実質的にしか近づけないことを理解している眸をも向ける。




「じゃあわたしのこと、嫌い?」




無言が恐い。彼がそこにいるのに。大多数とかわらないわたしでは届かない。触れられない、近づけない、マイナスじみたゼロ。
こわい、こわい、あなたがこわい。あなたの無言がこわい。あなたの世界がこわい。あなたの綺麗なすべてがこわい。
到達地点は彼の前。10センチメートル未満の物理だろうか。




「黒田くん、」




わたしの眸に彼が映っている現実映像を、彼の眸のなかでみつけた。動揺でもいい、嫌悪でもいいから。どこかに落ちていないだろうか。彼という不可思議な存在を、少しでもわたしに近づける欠片が。
シュレディンガーの猫が見る夢には、恐怖に耐えきれないわたしが、震えながら微笑んでいる断面図。彼からしても、さぞかし滑稽な姿だろう。
だって、




「だって、何考えてるのか、わかんないよ…!」




こわくてたまらないんだ。彼の日常において不必要な項目になっていたら、どうすればいい?
くじけそうになっても追いかけてきた。わたしが切り取られた会話。求めるような言葉なんて戻らない。あなたにずっと、問いかけて。






「本当は」




わたしの鼓動は微かに停止した。胸に焼き付けた彼の声が、降ってくる。





「本当は知らない。君の名前も」





その刹那、限りなく1に近い0になったわたしは
彼の理由にはじめて触れた。












清冽エトランジェ


(迷走の解き方)


090101  





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