明日が楽しみだね。と言ったのは不安混じりのわたしの声。彼は出会った頃と変わらない、優しくて温かな笑顔で答える。そうだね、千佳。わたしの髪を撫でながら、俺も楽しみだよ、そう言ってわたしの瞳を見つめる。だからこれは、もう13回目の確認。    彼は、






くゆる水沫





土曜の休みには、彼もわたしも同じリズムで生活する。部屋の隅に置かれた水槽を眺め、熱帯魚からくゆる平日の酸素も忘れるのだ。同居というカタチで補えるもの、それが仮初めであってもわたしは満足だった。前々から約束していた水族館デートは、一連の不安を伴ってやってくる。今日のために買った苺柄のワンピースやシンプルなボレロも、どこかくすんで見えた。うれしい約束のはずだった。楽しみだった、はずなのに。



「その服、似合うよ」



一足先に靴を履いて玄関に立っていた彼が、不意に口を開いた。
わたしは何気ない褒め言葉を聞いても、うまく笑みを浮かべられない。沈んだ気持ちを悟られそうになる。



「そう?この間、紗江と会ったとき、一緒に買ったの」



これは本当。



「久木さんが選んだの?」
「ううん、わたしだよ」
「へえー。さすが千佳」
「なぁに、その反応」



わたしが訝ると、彼はわたしの髪を触りながらまっすぐに空気を震わせた。



「かわいいと思っただけだよ」



それが、嘘。



「さて、」



少し照れた風にわたしがわざと俯いていると、彼が咳払いをしてわたしの手を引いた。わたしには判る。これもわたしと同じ、演技だと。



「行こうか」
「うん」








電車内での会話は中身のないものばかりで、ただただ思い出話を2人で並べる単純作業だった。同居する前と同居してから変わったもの。変わらないもの。友人のはなし。仕事のはなし。彼が必ず避ける、行きつけのお店の話題は、わたしだけが知っている。彼は、気付いていない。

到着駅近くから出ているはずのバスを探すのに手間取り(、彼もわたしも初めて行く場所ではこうなる)。紆余曲折の後にやっとたどり着いた水族館では、確実に過ぎた時刻を埋め合わせるかのように、笑顔になる瞬間がたくさんあった。



「ねえ」



白い椅子と丸いテーブルが無数に置かれた広間の一角に席をとり、多めに作ったお弁当を食べている時だった。わたしは卵焼きを食べやすいサイズに箸で取り分けながら、ふと言葉をこぼした。



「ん」
「今日の晩ご飯、どうする?」
「ああ」
「このままどこかで外食して帰る?家で食べるなら何か、」
「あのさ」



遮られた言葉を飲み込む。わたしは彼の顔を見た。彼の好みで作った塩辛い卵焼きを弄るのもやめて、続きを待つ。



「俺、今日この後、用事があるんだ」
「え」
「それで、たぶん遅くなると思うから、適当に夕食とるよ」
「……」
「悪いけど、千佳はひとりで、」
「わかった」



彼が言い終わるより早く承諾を返す。平然を装って、紙コップについだほうじ茶を一口飲んだ。



「じゃあわたしも適当にご飯食べるね。夜食とかいらない?」
「え、ああ」
「そう。なら外食しようかな」



見上げる。視線をかちりとぶつける。



「この辺にどこかいいお店ないかなあ」



一瞬だけ動揺がちらついた彼の眸を、わたしは素知らぬふりで見つめ続けた。



「そうだ。これ食べ終わったらこの辺散策しようよ」
「ごめんな、千佳。俺、あと30分くらいしか一緒にいられないんだよ」
「…仕事なの?」
「ああ。今まで黙ってて、ごめん」



わたしの髪を撫でながら、微苦笑を浮かべる。これは彼の癖。嘘をつくときの、どうしようもない癖。だから、もう14回目の再確認。彼は、時々こうやってわたしを置いて行ってしまう。紗江から聞いたところによると、美味しいパスタのお店がこの近くにあって。そこには可愛い“彼女”が働いているらしい。彼はそこの、常連だそうだ。いつもそこで、彼女と会ってから、どこか別のところへ行ったり。とかね。



「いいよ。わたしが今日すっごく楽しみにしてたから、黙っててくれたんでしょう?」



あーあ。今日、一日くらいはわたしが愛されていたかったのになあ。



「だけど、本当ごめんな」



これから彼女とまたここに来るんだね。



「だいじょうぶ。十分楽しかったし」



そのための下見に付き合えただけでも、十分。彼女より先だよね。わたしのこと、好きになったの。たとえ今が2番でも、最初はわたしだって思いたいの。今だって、少しくらいは好かれてるって思ってもいいでしょう。だって、嫌いになった、別れよう、ってまだ言ってくれないんだから。
嗚呼、でも。



「だいすきだよ、千佳」






ごめんね、ほんとはわかってる。
















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( 現実の飽和 )











081203







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