イツの問いかけに、納得のいく正解を切り返したことはまだ一度も無い。イツの問いかけが難しいから。いや、僕の考えがイツの理想じゃないからだ。海は透明のままでも良かったんじゃないか、とか。俺が眼の視えない少年だったらどうした、とか。並べ立てられる疑問符に、僕は溺れる。酸素はどこだ、水面はどこだ。すぐ目の前に溢れかえっている解答、リアリスティック・ユー。



「シオ」
「どうしたの、イツ」
「明日自分が死ぬとしたら、シオは何をする?」



群青の双眸が僕の動きを止めた。本を読む?そんなことは出来ない。イツの疑問符が手枷になるのだから。
僕は窓の外の白い世界へ視線だけを逃げ込ませた。昨日したように、ねえどうしてそんなことを僕に訊くの、と僕がここでイツの問いかけを黒く塗り潰しても、「シオの答えが必要なんだ」とイツは嘘を吐く。呼吸をしないサカナが何を考えて泳いでいるかなんて君にはわかるの。僕は解らないよ。それと同じことなんだ。伝わらない溜息。映らない寂しさ。こうして抉られ、止まりかけた心臓の螺旋を巻くのはイツでなければだめだった。黒光りする銃の引き金をひくのもイツ。こんな依存さえ、無ければ。



「僕はきっと、手紙を書くよ」
「遺書?」
「違う。ラブレターだ。…君にね、書くと思うよ」
「そいつは嬉しいね。無事に俺まで届くといいんだが」
「ああ、本当に」



本当に、そう思っているのかい。喉の奥まで這い上がってきた諧謔を沈めた。そうさ、笑う君にこんな醜い疑りを見せられる訳が無い。



「それか…手紙が無理なら、自分の声を録音しておく」
「徹底した記録ぶりだな。そんなにまで誰かに自分を憶えていてもらいたいとは、シオらしい」
「今の、シャレのつもりならやめてよ」
「これは失敬。そんなつもりは無かったんだけど」
「イツの嘘吐き」
「シオにだけな」



鈍色の空からまた雪が降りはじめた。今朝からだいぶ、積もっている。イツへの痛みと冷たい雪片。



「そう言うイツは、どうするの。明日死ぬと判ったら、」



窓からイツへと視線を戻して、僕の言葉は震える。シオの傍にいるよ、そんな答えは期待しない。僕らの距離はイコールでは結ばれていなかった。僕からイツへの矢印一方通行。切ない少年から孤高の少年へ。アローアロー。はぐらかさないで答えてよ。暗号めいた感情線がディストーションを頭で掻く。



「消すよ」



イツが眸を伏せた。群青が揺らいだ気がした僕は、何も考えずに途切れた声を吐いた。



「消す?」
「そう。アルバムも、名簿も、ビデオテープも、俺が在るものは全て捨てる。出来る限り消すんだよ、俺を」



用意していた切り返しは全部消えた。それ、なんて返せばいいの。依存しているのは僕だけだ。知っていたよ、解ってた。冷たい君の悲しい言葉は僕を傷つけるために有るんじゃない。君が排出した嘘は僕の世界を青く浸す。



「随分と、身勝手なリアリストだね。イツ」
「そうか?俺はただ、残していく誰かを悲しませたくない」
「へえ。イツを消せば、誰も悲しまないの」
「思い出す物が何処にも無ければ、より早く忘れられるだろ」



最低だ。そう感じるのと同時に、呼吸器官が切なさで軋んだ。
ほら君は、魚という生物に“溺れる”という概念が無い事を知らない。



「人の記憶は、記録と違うよ」
「…シオ?」
「僕はイツを絶対に忘れない、なんて誓えないけどね。イツが思うよりずっと永く憶えていて、ずっと永く悲しむよ。痛くてもいい、苦しくてもいい。馬鹿にされたって構わない。僕は、君みたいに合理的に出来てないんだ」
「俺はシオに溺れていて欲しくない…!離れて、忘れろよ。お前みたいに綺麗な存在がどうして俺なんかにしがみつくんだ」
「僕はサカナだけど魚じゃないから」
「?」
「ねえイツ、僕は君が必要だよ」



仮定を繰り返す君に、溺れるほどの愛情で答えよう。
群青が悲しみを孕んでいても、呼吸を知らない魚に僕がなるから。


背中合わせの瞬きで空気をなぞった雪の日。指先で患うだけの恋が叶った、あの日に似ていた。呼吸のリズムを重ねるように、否定を初めて口にした今日の僕は溺れずに泳いでいる。











溺れる群青



(溺れるほどの愛情は群青を融かして、)





080214  



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