揺ぎ無い瞳というのを自分が持っているとしたら、彼女は特別、揺らぐ瞳の持ち主だと思う。そこになんの理論もないし、根拠もないのだけれど。確かに彼女は、揺らいだ瞳を持っていた。
似合いもしない黒いマニキュアで整った爪を偽装して、彼女の悦楽は満ち満ちていた。サディスティックな思考を己に対してだけ持ち合わせる、他方から見たマゾヒスト。言葉は常に倒錯していて、俯瞰したもう幾人かの自分が脳内で歌っているのだそうだ。だけど、そんなのは僕には関係ない。




「あのね、あたし『死ぬほどすき』ってすごくいい言葉だと思うの」




彼女の声は、成る程とても可愛かった。落ち着き払った口ぶりや飛び出してくる難しい単語を除けば彼女はまるで幼い少女だった。いつまでも夢を視続ける愉悦のアリス。




「へえ」
「聴いてる?」
「聴いてるよ、たぶん」




僕の言葉から伝わる倦怠感も彼女からしてみればまるで無色透明、無味乾燥だった。揺らぐ瞳に僕が映っているのかさえ疑わしい。ノートパソコンを開いてお気に入りから暇つぶしになるページをサルベージしている僕の指先をじっと見つめながら彼女は白い顔には不釣合いなほど目立つピンクの口紅を塗った唇をまたぼそぼそと動かした。




「ユウ君は、死ぬほどすきって感じるものある?たとえば、オン・ラインで出逢う絶妙な小説とか」




視線は画面、意識は彼女。僕は捕えられた異次元のなかで呼吸をしている気分だった。だらだらとマウスを動かしても苛立つのはバイト数の大きい、全画面にのさばる画像。何をしたってキロバイトには抗えないし、要らぬところをクリックすれば余計時間をとる。彼女の黒い髪とマスカラだけで長さを保った睫毛が僕に影を落した。安らぎがない。少なくとも彼女のドラスティックな論説に付き合っている間は。




「ないよ。好きな小説で死ぬなんて嫌だ」
「そう?あたしは、死んでもいいけど」




毅然。悠然。大音量。僕の耳に突き刺さった言葉は彼女の口癖だった。可愛らしいトーンで冷たいことを突き立てる。ゆらゆらと彷徨う残像とノイズに僕は吐き気を覚えた。いつもそうだ。彼女はそうやって僕を傷つけることを快感としている。だからそういうことは表情に出さないようにしていた。何も感じないよ。君のことには興味が無いんだ・何より銀光りする大嘘。




「ユウ君」




ループする。背後の台所から水が撥ねる音がした。シンクが熱湯をかけられた時みたいにボンと蠢く。そろそろアルバイト先に電話しなくちゃ。辺りを見回しても携帯電話が見つからず、僕は舌打ちを堪えた。用が有る時にはどこに置いたか忘れる、不都合な所持品。
彼女が僕の思考と苛立ちを察したらしく、唐突に立ち上がった。数秒後、どこから持ってきたのか僕の携帯電話を差し出している。




「ソファの隅、差し込んでたら見つかんないよ」
「ああ、そう」




ありがとう。そこまで言えばいいものを、僕の喉は「そう」の辺りから渇きを訴えて命令どおりには動かなかった。結果的に冷たい反応をしてしまったが、彼女はそんなことには慣れている。僕に携帯電話を渡した直後、真っ黒で艶々の爪が僕の眉間に衝き立てられた。




「『ありがと、ひいちゃん。あいしてるよ』って言って」
「痛いよ。斐色、今から電話するんだから黙ってて」




似たり寄ったりな言葉で裏腹な爪痕を残す。彼女のひらひらした、所謂ゴシックロリータという洋装が視界でちらつく。狂ったように手の甲を引っ掻きながら彼女は僕の大腿に素足を乗せた。ペディキュアは水色。このちぐはぐが僕には理解不能だった。彼女が好む日本文学と、彼女が装うふわふわの血塗れたドレス。太宰治も夏目漱石もマルキ‐ド‐サドもマリー・アントワネットも彼女のなかでは同じくらい“死ぬほどすき”で、釣り合っているらしい。僕が最も嫌う、有り得ないという言葉がこれほど当てはまるのも珍しかった。人工的に作り出された異常存在とさえ呼びたくなる彼女の嗜好と思考は宇宙に向くことも生命の誕生に向くこともなく、何処までも抽象的な絵画にだけ向いている。その癖、広辞苑から記憶してきた小難しい単語や漢字をいとも自然に会話で使う。知識の深さと教育の浅さ、ちぐはぐなマニキュアとペディキュア。色鮮やかなルージュと睫毛を伸ばす効果のないマスカラ。飾らない冷静さと子供っぽさで僕を辟易させるのは一流だった。きっと僕は一生この不完全作品に縛られるんだろう。




「ユウ君、でないの?店長さん」




4コール。7コール、8、9コール。僕の大腿に彼女の爪先が食い込む。閉じないままの液晶画面で間違わずに押した証拠、相手先の電話番号が躍る。念のため、とパソコンのメモ帳に記した電話番号は誤りだったのか。ああそれしかないな、そう思ったのと同時、随分と粗雑な音で気配が伝わった。




『もしもし、今忙しいんだけど誰』
「桐坂です。今日バイト行けそうにないんで、」
『ハァ?困るよ、桐坂君休んじゃうとー。人手足りないんだからさぁ』
「すみません。明日は必ず行きます。今さっき入院してる父の容態が変わって」




僕の真っ赤な嘘に店長は押し黙った。こうやって僕は彼女みたいになっていくんだろう。嘘を吐く事に何の疑念も持たずに、あれそれっていけないことなの?へえ知らなかったよ、何処までも腐った人間性を晒す。




『じゃあ、明日は頼むよ。お父さんのほう、お大事にね』




機械越しの渋々といった色合いに、僕は定型文を口にした。すみません、ありがとうございます。閉じた瞬間、彼女が笑い声をたてた。




「入院してる父ねえ…。カノジョが僕に纏わりついて離れないので行けそうにありません、って言えないよね」
「斐色、いい加減にしろよ」
「ユウ君が悪いんだから、怒られたって知らない。だって昨日約束したでしょ。絶頂到達10回にならなかったら束縛するよって、言ったよ。あたし」
「下卑たこと言うな。腹が立つ」
「ねえユウ君」




暴力を振るう絶対君主の顔つきで、彼女が僕に噛み付く。ゆらゆらと定まらない瞳でノートパソコンを閉じて、胡坐を掻いている僕に覆い被さるように馬乗りになる。淫らな猫だ。ただし高貴な眠気を纏ったジャンキーキャット。僕にとっては興味が無いんだ、そう言い聞かせたところでうんと頷く訳も無い。しんと静まりかえった空間で彼女は神秘だった。似合いもしない化粧と洋装で儀式を始める、背徳のシスター。




「死ぬほどすき」




歪曲した仮面の告白を合図に僕までもがドグマティックな気分に酔った。誰だよこんな婀娜っぽい天使を生んだのは。やり場の無い罵詈雑言は、下手をすると綺麗事みたいに聴こえる。彼女の横暴な人生を鋏で切り刻みたいと意識している自分にさえあいしてるよと言えてしまいそうだ。死ぬほどだって?それなら死ねよ、いっそ死ね。信じられないほど愚直になった僕のサディスティックな自我が彼女の唇を奪った。それから閉じ込められた欲望を口に含む、吐き出す、広げたキャンバスに圧し付ける。彼女の言葉を聴いてから、それらすべての思考を終えるまでの所要時間は僅か。ゼロコンマ3秒の愛憎喜劇だ。









サディスティック

ガール



(不釣合いな彼女)


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