夢をみた。わたしは懐かしい高校の級友たち数人と一緒に行動していて、それがどこだったかはうまく思い出せないけれど、楽しく、とても楽しく、過ごしていた。
学年のみんなが集合して、列に並んで座る。わたしが最前列、うしろが黒田くん。そのうしろにわたしの友達。そんな並び順はありえないのに、夢では易しかった。
それから黒田くんに抱きすくめられる。どうして?…どうしても、それは夢だから。後ろから抱きすくめられるわたしを、わたしの意識がふんわりとななめうしろから見つめる。なんだかひどく滑稽だなと思った。
「すきだ」
うそ。夢だからだ。
「うそ」
夢のなかのわたしもちゃんと疑り深い。
「一番好きだよ、永江」
「だけど、わたしにはもう彼氏がいるんだよ」
不思議なやりとりだった。わたしに彼氏がいるのは今、夢の外の、高校を卒業してからのわたしの現実。
黒田くんはそれからつらそうな顔をしてなにも言わなかった。それでもわたしの肩に腕を回したままだった。
「わたしは彼氏のことがすごく大切だから、裏切れないよ」
これは、嘘じゃ無い。それでも黒田くんに好きだと言われたことが嬉しくて、そのぶん困惑と切なさが押し寄せていた。彼の端正な顔がわたしの頬の横にあること、あんなに触れたいと願った彼の身体がわたしの背中と密着していること、彼がわたしのことを恋しそうに呼ぶこと。夢だ。だからこれは、夢だ。
「ねえ、だって、黒田くんは、わたしのことが苦手だったでしょう?」
「二年生まではそうだった。三年からは、ちがう」
「そう、やっぱり、そうなの」
ああ、わたしの思っていたとおりだったんだな、と腑に落ちたふうに夢のわたしが笑う。ほんとうに?と俯瞰するわたしが混乱する。
それからのことは憶えていない。
夢は、それからたくさんのバラエティーをそろえてから消え、わたしに朝をもたらした。
寝覚めの悪い朝だった。わたしはもう、大学卒業を半年後に控えたおとなだった。


『おはよう永江』

広瀬からのメールの文面に目を通す。他愛ない、否、愛よりほかない文章だった。今日はどこどこへ行くからおみやげを期待していて、と主には彼の予定が書かれた文面の最後に、「眠れたか?」とあるのを見て、返信を打つ手が止まった。
広瀬との付き合いは2年半を過ぎる。アルバイト先で知り合ったふたつ年上の男の人だった。当時のわたしは彼を黒田くんと比較した。黒田くんよりも背は低い。黒田くんは色白だったけど、この人はよく日に焼けている。黒田くんとおなじで、頭もよくて運動もできる。黒田くんよりよく喋る。優しくて、気配りがよく、何より笑った顔が幸せをわけてくれる。
当時のわたしはそうやって出会う男性と、黒田くんとを比較しては黒田くんに軍配をあげ、あたらしい恋などむずかしいと決めつけていた。なんともお粗末な女だと我ながら思う。何度も何度も広瀬と黒田くんを比較して見つめ直す度に、広瀬のほうが負けていると思った。わたしは黒田くんを諦めきれなくて、ずっとずっと好きなままでいたから。結局のところ、誰と比較したって同じことだったのだ。それでも広瀬はすっと、渇いた喉を潤す水のようにわたしの心を癒やして、負けたままで勝ってしまった。幸せをわけてくれる笑顔に眩んで、気づいたら好きになっていた。

『暑くて悪夢をみたけど、眠れはしたよ』

返信は正直なものができあがった。どのみちわたしは広瀬に嘘がつけない。付き合い始めた頃から、わたしは彼に嘘をつくことができなかった。彼への嘘が生理的に受け付けなかったというほうが当てはまる。そのせいで色々と衝突もしたし(、おおいにわたしが意見をしすぎるので)、泣いたり笑ったり、喜怒哀楽の激しい年月を過ごしている。高校のころはこんなわたしではなかったと思うけれど、どうだったのか。
ふと、水彩のように淡い青紫の制服ネクタイが脳裏をよぎる。黒田くんからみたわたしはどうだったのだろう。

『大丈夫?』

広瀬の返信は早かった。そういうところが、優しいのだと思う。わたしは裏切るような夢をみたのに、案じてくれる。もちろん、彼は知るよしもないけれど。

『大丈夫だよ。行ってらっしゃい、おみやげよろしくね』

対してわたしの返信は強制終了型だ。スマートフォンを枕元へ投げて、カーテンを開ける。すこし、ひとりになって頭を冷やしたかった。
あんな夢をみたのは、わたしのせいだ。


高校を卒業してからの日々はめまぐるしくも楽しかった。何もかもが新鮮だった。淡い青紫のスカートを脱いで、毎日私服で出かけていく自分が、たくさんの刺激にふれて成長していく感じが、肌をさす紫外線のように確実に自分に注いでいて、蓄積されていた。化粧を憶えて、髪を染めたりすることで女としての自信を身につけられると学んだ。そして、そんなふうにわたしというものが大きくなっていくにつれて、高校生のころのわたしを懐かしく思う気持ちがどんどんと、季節を追うごとに増した。
それは、黒田くんを思い出すことが増えたのと同義だった。


黒田くんはわたしの入った大学よりも、もっとずっと頭の良い、隣県の大学へ入った。あの夏、オープンキャンパスへ行きそびれたわたしは、駅で黒田くんと偶然会って、それからファストフードでお昼を食べた。片思いの相手と食べるハンバーガーは、喉をとおりにくくて、いつもの十倍は味がわからなかった。
思い出す。
寝坊して電車を間違えて、という散々な体でオープンキャンパスに行きそびれ、馬鹿みたいでしょう?と自嘲したわたしに「そういうところがあっても、悪くない、…だろ」と言った彼を、思い出す。少し照れているように見えたのは、わたしがそうであってほしいと思ったからかもしれない。
忘れられない。
「永江、昼は?」と聞いてくれたこと。まだ食べていないと答えたわたしに「じゃあ行こう」と先を行ってくれたこと。忘れられない。憶えている。
思い出してしまう。
はじめて会ったときのこと。無口な彼に、女子は嫌いなのかと聞いたこと、違うと言われてじゃあわたしのことが嫌いかと聞いたこと。
「もし」
あのときわたしは、もしもの話を彼にかけた。
「もしわたしが、あなたの所為で明日消えて」わたしの言葉の続きを待って、彼はわたしを見ていた。
「いなくなったら探してくれる?」
意味不明な問答をしたわたしに彼は、わたしの名前を知らないと言った。これはひどい記憶だ。それからは憶えてくれたけれど。
連休前、保健室の前で偶然会って、「彼女とデートに行くの?」と聞いたら、「今は、いない」と答えられた。
わたしの縮められない距離を、触れられない世界を知っていた子がいたのだと思うと、それだけで胸の奥が焦げ付いた。
そんなことを思い出す。たくさんのことを思い出す。わたしがガムをあげたとき、あのとき黒田くんはすこし耳が赤かったとか、それでもやっぱりわたしは黒田くんの眸に映ってはいない気がしたとか。ちいさな期待と、たかがしれた絶望と、センチメンタルと、燃えるような恋ごころとを、忘れられない。


だってわたしは、それから彼に告白をしなかったのだ。
わたしは黒田くんに、好きだと言えなかった。彼が志望する大学に合格した、と人づてに聞いたとき、そのときがわたしの最後のチャンスだった。おめでとう、と一緒に、実はね、と続ける。そんなメールを送るとか、そんなメールで呼び出して、直接思いを告げるとか、そんなことができたはずだった。だけど、臆病なわたしは。
逃げてしまった。叶わないと信じていたから。勝手に何もかもをあきらめて、わたしには望みが無い、一縷だってありはしない。そう思ってしまった。ずっと思い込んでいたそれが、最後の最後で、無理に思い込むんじゃなく、本当に自然に、空気を吸うように思えてしまった。ああ、無理だ。いいや、と。大丈夫だ、とあきらめがついてしまった。
わたしの、黒田くんを好きだと思う気持ちが、そんな簡単に捨てられる程度のものだったとは思わない。わたしは本気で好きだった。本当の本当に、彼へ恋をしていた。なのに、それはアルコールランプに蓋をかぶせるように、立ち消えてしまった。 今思うに、彼はあまりに理想的だった。それはさながらテレビ画面の向こうで輝くアイドルのように、わたしが恋せざるをえない王子様だった。だから、届かないとわかっていて恋をした。そんな世界に焦がれた。そんな奇跡を夢見た。憐れな人魚姫の命は、高校生という制服から放たれたときに終った。

「終っておけば良かったんだよ」

ひとりごとが、部屋の壁にぶつかる。しろい壁にぶつかったそれは、跳ね返って自分に刺さった。終っておけばよかった。そう、告白をして、きっちりと、確実に息の根を止めて貰えばよかったのだ。人魚姫は泡になった。泡になってしまえば、海のどこからでも王子を見守ることができる。それではだめだったのだ。死んで、骸になって、なににもならずに終ればよかった。
そうすればこんなばかな夢をみたりしないのに。

「黒田くん、好きでした。高校生のわたしはあなたが好きでした」

涙がじわりと浮かんだ。みじめなひとりごとが部屋に充満して息苦しくなった。

「だけどもう、あなたじゃないの。最愛は、もう違うの」

広瀬のことが好きだ。もう長く付き合っているし、大学を卒業したら結婚するかもしれない。互いを深く知っていて、そばにいて安心する関係。今朝の夢で、黒田くんに抱きすくめられたわたしは、すこしも安心なんてしなかった。たとえば、夢が現実だったとして、わたしは黒田くんの思いに応えて、広瀬を捨てられるのだろうか。そんな疑問は数秒と保たない。ありえない。わたしは広瀬と別れるわたしを想像できない。第一、黒田くんと付き合う自分が微塵も想像できなかった。片思いで精一杯だった高校生のころのわたしだって、想像できなかったはずだ。今となっては、もう単なる理想像に過ぎないと思う。
広瀬に、高校のころ好きだった女の子について聞いたことがある。「今となっては、なんで好きになったんだろうね」と思うらしい。わたしは、どうだろう。
もう思い出せない。ただ、完璧だったからだと思う。今のわたしが考える限り。だからアイドル。だから王子様。だから偶像、理想像。


考えてもつらくなる一方だった。お昼から高校の親友と食事の約束をしている。わたしは自室をあとにし、そこに悪夢を封じ込めるように勢いよく扉を閉めた。




「楽しかったよね」

友達はパスタをフォークに巻き付けながら言った。わたしは水を飲んで「なにが?」と聞く。
カフェは満席になるかならないか、お昼時にしては少しすいていた。窓際の席に陣取ったわたしたちの顔色は明るい。店員がせわしなく働いているのを横目に彼女が微笑む。

「高校のころだよ。たのしかったよねって」
「ああ、そうね。男女関係なしにクラスで盛りあがったりね。騒ぐ時はみんな巻き添えだったもんね」
「そうそう。とくにうるさかったのがあいつ!」

彼女の満面の笑みにつられ、クラスのお調子者の名前を、ふたりで同時に唱えてハモる。自然と笑いがこぼれた。

「いちばん静かだったのは黒田くんだよね。クールなのに、男友達とはしゃぐときはけっこう一緒になってバカやってたりしてた」
「そうだっけ?」
「なにとぼけてんの。一番知ってるのは永江でしょ」

なぜみんなわたしのことを名字で呼ぶのだろう。広瀬ですら下の名前はたまにしか呼ばない。

「そういえばさ、今朝の夢にでてきたの。黒田くん」

わたしは夢の話をした。その間にもふたりのパスタは減っていく。ひとしきり聞き終わると、彼女は難しい顔をして口を開いた。

「そういうのって、あれじゃない?深層心理っていうか」
「つまり?」
「なんかさ、そういうこと言ってる人いたじゃん。夢のなかで相手が言ってることは自分が言いたいことだー、とか。自分がされたいことだーとか?」
「ああ……」

それはどこかで聞いたことがあった。詳しくはさっぱりだけれど。

「その黒田くんが言ってた『一番好きだ』っていうのは、永江の意見だったりして」
「うん…それ、きついね」
「ほんとね。でも永江は彼氏にぞっこんだしなあ」
「やめてよ、もう。恥ずかしいから」
「いいことじゃん」
「うーん」

他愛ない会話。愛のある会話?
わたしの一番は、広瀬だと思ってる。だけど?
そのとき唐突に、かけめぐる風のように思い出した。
夢の中でわたしは黒田くんに言った。「一生忘れない存在だと思ってる。一生好きだったことが消えないと思う。だけど、やっぱり今はもうだめだよ」そんなことをちゃんと言えた。
言えていたじゃないか。肝心なことは忘れて、わたしはなにをしているのだろう。

「あの頃はさ、恋に恋してたっていうか、恋してるのが楽しかったよね」
「……え?」

彼女が笑った。

「永江の恋がうまくいくようにとか、うちの恋がうまくいくようにとか。さっき黒田くんが耳赤くしてたよ!とかそういうの報告しあってたじゃん?あれがさ、今思うと本当に楽しかったなって」

彼女の言葉に、わたしはフォークを動かす手を止めていた。
そうだ。本当に、そうだったんだ。

「そっか。わたしがずっと今でも忘れられないのって、黒田くんに恋してたわたしなんだ」

雨粒みたいにぽつりと落ちた言葉が、みるみるうちにわたしの胸にひろがっていく。朝から冷え切っていた胸が、あたたかくなる。

「それはあるかも。うちもそんなようなもんだしなあ」
「そうなの?」

彼女はわたしと違って、きちんと片思いの相手に告白をして、そして振られた。

「うん。思い出すよ、今でも。けっこうこっぴどく振られたけどさ、それでもやっぱり、あの楽しかった高校時代に恋した相手なわけで、忘れることはできないよね」
「そっか」
「うん。まあ、だからといって今でも好きってわけじゃないけどね。なんかやっぱり過去だから美化されるっていうかさ、そういうのあるじゃん」
「あるね」
「だからやっぱり理想像だよ、永江の言うように」

彼女の言葉にわたしは頷く。
黒田くん。わたしはあなたが好きでした。高校生のわたしはあなたに恋していました。バカだよね、叶うはずないのに。

『悪くない、……だろ』

あの夏にくれた言葉が思い浮かんで、せつなくなった。けれど、なんだか良いタイミングだなと思うと可笑しい。水の入ったグラスの縁から、滴が流れ落ちる。それを目で追ってから視線を左へ向けると、窓の外で常緑樹から一葉、ゆらゆらと舞い落ちるのが見えた。








( これからもずっと永遠になつかしい君へ )


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