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沈んでいく。ふやけて、ちっとも美味しそうじゃない餌。
彼は袋に手を突っ込んで、出して、水槽の中に落とすその作業を無心にやっていた。私はただ、それを眺めているだけ。

「ねえ」

ぱくり。金魚が口を動かした。

「可愛い、の?」

その瞬間、金魚たちが私を見たような気がしたけれど、分厚い水槽の壁とポンプから延々と作り出される泡の音にはっきりとした確信は持てなかった。

「ねえ」

彼は答えない。考え事か、それともシカトか。たいした質問じゃないから、私はもう訊かない。
水槽から聴こえるモータ音と、泡と水の音だけが暗い部屋の中で唯一の現実だった。 私はソファの上から水槽の金魚と彼を見つめるのにも飽きて、閉め切ったカーテンの隙間から見える一筋の日光へ眸を向けた。でもやっぱり眩しくなって、気付けばまた水槽の金魚と彼を見つめている。 繰り返して、変化のない景色だ。昼間なのに真っ暗で、空気も重い。

「べつに」

問いかけてから随分経った頃に聴こえたその答えは、私には理解できなくて呪文のようだった。べつに?って、何が?

「可愛く、ないよ」

その言葉に、ああさっきの答えか。と今さら理解できても、もうどうでもよくなっていた私は小さく「そう」と答えただけだった。それ以上何も言う事はないし、可愛くないのにどうして飼ってるの、と訊いても彼はきっと答えない。


「華沙」


不意に彼は餌をやる手を止めてそう呟いた。静かな部屋の中で響いた私の名前もまた、呪文のように聴こえた。
それにしても“かしゃ”という音がいけないのか、小さな頃から私はいつも自分の名前に違和感を覚えていて、呼ばれてもすぐに反応できない。字にすると“華沙”で、まあまあ綺麗なのがせめてもの救いだ。

「俺さぁ、」

彼の言葉は続かない。口を開いてからあまりに長い沈黙に、私は自分でも驚くほどあっという間に痺れを切らして「何」と声に出した。

「暫く、いなくなるよ」

呪文だ。理解できない言葉の羅列。シバラクイナクナルヨ?

「は?何処に?暫くってどれくらい?いなくなるって何で?」

息継ぎ無しにそう叫んだ私は、まだ自分が喋れることに驚いていた。今日、目覚めてから一番多く言葉を発したせいかもしれない。

「明日の朝、行くから」

何それ。私は彼の呪文にかかって、酸欠の金魚のようになった。

「こいつら、頼むよ」

あのさ、金魚なんてどうでもいいんだってば。私の質問に答えてよ。
声は出ない。言葉が紡げない。酸欠だ。死んでしまう。

「―――――!」

その瞬間、私は漸く叫べた。選んだのは彼の名前。理由もなく、彼を叫んだ。 彼が振り返る。金魚が泳ぐ水槽に背を向けて、ソファという陸に上がって死にかけている私を視た。

なに?

唇を動かして、だけど声に出さない。いじわるだ。


「……いってらっしゃい」

置いていかないで、とか。嫌だ、とか。私は言わず、言えずにありふれた挨拶を口にした。彼は笑う。困ったように、嬉しそうに、悲しそうに。説明できない感情のこもった、綺麗な笑顔。









「ありがとう、いってきます」










曖昧な愛のなかで、溺れる魚はうたいだす。

「キミが陸なら、僕はとっくに酸欠さ。」





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