ぐるり、


まわったすべて。見えない、視えている。乾いた唇をゆっくりと開いて喉から声をだそうと努力した。掠れた音が鳴るだけで、伸びてしまったテープのように外れた声。
その瞬間、目の前を見覚えのある誰かが通り過ぎた。否、そんな気がしただけかもしれない。判らなかった。セカイが白に染まってしまった、そう錯覚するほど私の眼睛が白濁しているみたいだ。もしかしたら、本当にセカイが白で、私の目には何の変化も無いのかもしれない。だけど、それは確認しようがない。
躯も動かないまま時間だけが過ぎていった。此処に時間なんてものがあるのなら、だけど。指先が、数センチ動いたところでこの状況が変わる訳でもなさそうなので、ただ面倒な瞬きを繰り返す。躯中を、気持ち悪い蟲が駆け巡っていく感覚が襲う。途端に酸っぱい液体が口内に広がった。辛うじて、吐く事は無かった。


「お嬢さん」


異質が、降ってきた。ぼんやりとしてよくわからないけれど、やっぱり声の主も白かった。人かどうかわからない。ここまでくると、白兎だろうが悪魔だろうが天使だろうが人間だろうがなんだっていいのだけれど。


「だれ、」


空気を震わせたのは私だった。私の唇からするり、零れ落ちた言葉が直接耳に伝っていく。さっきまでちっとも言葉にならなかった声が、急に鳴った。これはおかしい、そう思って乾いた唇を痺れた舌で舐める。 声の主は笑っている。キヒキヒ、と。変な笑い声が、私を嘗め回していった。嗚呼、気持ち悪い。


「吾輩ですか。お嬢さん、そんなの答えは簡単ですよ。お嬢さんが視たとおり、が吾輩です。ね、とっても簡単でしょう?」


キヒヒヒヒ。腐った笑い声がまた私を嘗め回した。今度は、思ったとおり腐っている臭いまでしてくる。堪えていた酸っぱさがまた込み上げてきた。


「お嬢さん、それは自業自得ですよ。お嬢さんが吾輩の笑い声を“腐っている”だなんて思うから、本当にそうなってしまうんです。験しに“馨しい”と考えてごらんなさい。そのとおりになりますよ」


キヒキヒ。“馨しい”なんて思えない。験しにでもそう思えるなら、それこそ最初から“腐った”なんて思わないだろう。相変わらず世界は白く、声の主も笑っている。


「名前、は何」
「吾輩のですか?」


そうよ、彼方の名前。喉からは、ひゅうひゅうと苦しい音だけが鳴った。どうやら必要な事以上は喋れないらしい。重い目蓋を懸命に開き続けて声の主を視る。笑った。不意に、声の主を視認できないのにも関わらず、私はそれが分かった。不思議な事に、声の主が“笑う”、それが悲しいことの様に思えて息が詰まった。


「名付けて下さい。お嬢さんが、吾輩に名付けるといい。お好きな名前を、適当に」
「違う」


力限りに叫んだはずの言葉が、ゆるく静かに響いた。白濁した視界が騒ぐ。躯の上に何かが、今までより一層重い何かが圧し掛かった。声の主は、笑顔を模ったまま首を傾げる。それも、私がそうイメージしただけ。


「おや、違うとは?」
「私が訊いてるのは名称じゃない。彼方の名前。名前は人間の真実よ。名前を、教えて」


麻酔を掛けられた脳漿から、ぼたぼたと言葉が爛れ落ちる。舌を伝って唇へ這い出てきた言葉がセカイを切り裂いた。自然と生まれてきた『人間』という確信に、自分自身で驚きを隠せない。声の主が、人間だという事実を私は識っていた。それは、何故。


「お嬢さん、吾輩の真理を知っているのはお嬢さんだけなのですよ。崩さず、壊さずに識り続けられるのは。だから、こうして狂わされた」


意味が分からない。何を言っているの、何をしているの。私を抱き締めてどうなるというの。躯の内側から砂を流される。赤血球に付いて廻っていくソレを、抑えきれない。気持ち悪い、酸っぱさが口内に充満する。無声動画のように金切り声をあげた調和が白を誘った。目蓋はもう閉じかけている。躯、動かない。声、鳴らない。伸びてしまったテープがしゅるシュルと外れた悲鳴を撫ぜていく。その時私を愛しんだその声の主がキヒキヒと笑い、そして涙に溺れていった。


「お嬢さん、吾輩を愛してください。お嬢さん、吾輩を厭ってください。お嬢さん、お嬢さん」


白が、歪む。



「吾 輩、を  殺し 
          て   く
              だ 、

            さ

                 い 」




ぐるり。


ぞぶりと沈んでいった声は、ぶれていく私に触れ、最後の零秒で突き放した。
白は消え、セカイも私の形のまま。目蓋を開いて“いつもどおり”に気付いた瞬間、私のなかからひとつ、死んでいった。嗚呼、私が殺してしまったんだ。そう理解するのは容易い。声は分かっていた。私がこうして居切ることで、白のセカイと其処に有していた自分が死ぬ事を。
一面に広がったシーツの上で上半身を起こす。抉り取られた空白にもどうやら堪えられるみたいだ。それも、乾かない慟哭を引き換えにして。
愛してる。厭ってる。望みどおり、彼方はもう死んでしまったよ。


「さよなら、(私の狂気)」










カリウムの元素記号に送るキス






140508手入
inserted by FC2 system