昔からそうだった。ぼくが輝く物を手に入れると、それは間もなくぼくの手から消えてしまう。サテンのリボンがするりと滑るように、砂がさらりと零れるように、何もかもがぼくから逃げていく。或いは何かに奪われていく。そしてぼくは、そのことに慣れてしまった。









始業式の日から1週間が経った。
ぼくはなんとなくトユカを避けるようになり、必要がなければ教室を出ないようにもなった。
休み時間になれば何人かのクラスメイトとも話すことができるし、悪意をもって避けられることも、極端に持ち上げられることもなかった。困ることは無いんだ、と思う。見知った顔と見知らぬ顔の入り混じる、穏やかな教室。完璧に馴染むことはできなくても、それでももうぼくは、トユカのいない教室で、居心地が悪いなんてことはない。トユカと一緒に築きあげた観沙 青の新しい立ち位置は、こんなにもしっかりとぼくを支えている。トユカのお陰で、ぼくはこんなにも楽になってしまっている。そう思えば思うほど、情けないぼくが忌々しい。


「――…ミスナ様が物憂げな顔をしてる。どうしたのかしら」
「――…赫夜くんがいないからよ」
「――…かぐや様も訪ねてこないわね」
「――…あいつも思ったより薄情なんだな」
「――…兎床ならさっき向こうで見たぞ。クツナギとかいう編入生と一緒に…」
「――…おい、忽那木 珀亜って言ったら、観沙の親戚だろ」
「――…王星グループの次期総帥になるって噂の、あの忽那木家だよ。その御曹司」
「――…そもそもなんでこんな時期に編入してきたの?何か裏があるんじゃ…」
「――…ちょっと、憶測でハクア様のこと悪く言わないでよ」
「――…観沙くんに聞こえるでしょう。静かにしなさい」


窓際の一番後ろの席で、ぼんやり窓の外を眺めている。ただそれだけで、本を読んでいるわけでもなし、教室内で話していれば、もちろん耳に届くに決まっている。


「(聞こえているよ、なんて。わざわざ意地悪を言う必要もないけど…)」


噂話なら余所でやってよ。と、昔に覚えた気持ちが疼く。ぼくは溜息をもらしそうになって、唇をきつく結んだ。


「(ハクア……どうして、)」


仄暗く淡い若草色の瞳が、ぼくを捉えたとき。あの悪夢の瞬間は、まだ脳裏に焼き付いている。


―― 『きみのためだよ』


ぼくには、「きみのすべてを奪うため」と言っているように聞こえた。
麗しきレプリカ、ぼくを恨んで泣いていた少年。君はまだ、ぼくを憎んでいるのか。あの頃と変わらず、今も尚。









ぼくが10歳にも満たない頃、まだ父さんも母様もそろって、当たり前の家族だった頃の記憶。
観沙の家には親族会なるものがある。観沙の直系や傍系、その他縁ある人々、王星グループの一握りの有権者などが集まるもので、ぼくたちも毎年参加していた。とても伝統的なもので、豪奢な洋館・屋敷に招待される人数は、100を優に超える。


「15歳以下のご子息、ご息女をお連れでしたら、別室でおもてなし致します」


ぼくはパーティーの中盤で響き渡る、この掛け声が大嫌いだった。大人達の都合だ。会社の事、家の事、提携がなんだとか権利がどうとか世継ぎは誰だとか。そういう込み入った話をするための封鎖措置。
あっちへお行き、遊んでらっしゃい、少しの辛抱ごめんなさいね。 次々に親の声があがり、幾人もの子供が、或る大人に引率されて別の広間に通される。ぼくも例外なく、母の手から放されてしまう。みんなと仲良く遊んできなさい、と頭を撫でられると、ぼくは涙を堪えるしかない。かあさま、ぼくはみんなにきらわれています。そんな事を言って困らせたくはなかった。だれとなかよくすればいいの?そんな事を問うて悪い子にはなれなかった。幼いながらに抱く絶望感に胸を押しつぶされそうになりながら、ぼくは母様から離れる。
観沙の当主の血をひいている、直系だ、跡継ぎ候補だ、どこの馬の骨ともしれない母親から産まれたくせに、当主の次男坊にそっくりだ、利権に酔った厭な子供に違いない。
どこかの傍系の家の親がそんなことを子供に教え込む。子供はそれを信じ込み、ぼくを嫌う。中学生くらいの賢しらな子供は、見つかると厄介だから虐めるなと弟たちに忠告している。
その結果がぼくを透明人間として扱う、精一杯の嫌がらせであった。
ただし、いかな透明人間として扱おうと努力しても、所詮子供は子供だった。視界にいられては目障りで仕方ないので、何も無いところへ向かって罵る、誹る、毒づく。金色の髪の子供について。碧い瞳の子供について。ぼくはそれを平気で聞いていられる耐性などないから、引率してきた大人がいなくなるのと同時に、広間の外へと一目散に逃げ出すのだった。


5歳か6歳の時だったと思う。折り悪く、子供グループではない関係者に見つかってしまったことがある。その人はぼくの目から見て、中学生か高校生くらいに感じた。廊下の向こう側から来た、ということは16歳以上なんだろうか。と、咄嗟に考える。けれど彼はまるでパーティーにそぐわない、パーカーにジーンズという出で立ちだった。


「おいおい、ちょっとそこの、…坊ちゃん?嬢ちゃん?」


逃げても無駄だと理解していた。だからその人に背を向けはしなかったものの、嬢ちゃんという言葉にいっぱしの不快感を覚えて、黙りを決め込む。その人はつかつかと歩み寄ってきて、ぼくの目の前に屈んだ。


「あー、…困ったな。どこの子?」


ぼくが「観沙」と呟くと、その人は眉根を寄せた。ああ、やはりこの人もぼくを厭うのか。と思った。


「観沙って苗字でこんくらいの幼児…?児童?……風来で有名な、若い次男坊のとこか。じゃあおまえ男なんだな…。紛らわしい顔しやがって…。家系図思い出すのめんどくせえから親のフルネームをちゃんと言えよな、まったく。まあ家はどうでもいいや。おまえの名前は?」


はじめてだった。ぼくの家をどうでもいいと言ってくれる人は。そのうえ、ぼくの名前を聞いてくれた!ぼくはその驚きと歓喜の為に、警戒心を解いてしまった。今までは誰もが観沙という苗字まで聞けば満足し、それ以上は踏み込まなかったのだ。


「せい、です」
「セイ?」
「青色の、青って書く…んです。それで、せい」
「…青か。わかった。あとな、「です」とか、「ます」とか無理してつけなくていいぞ」


丁寧語を使わなくていい、というのもぼくにとってなかなかに驚くべき提案だった。
ぼくは黙って頷く。


「そんでその青ぼっちゃんは何してんの?子供はみんな中にいなくちゃいけないんだろ?」
「………」
「おまえ、まさか爪弾き?」
「…なあに、それ。……」
「…え、…つまはじき、ってのは…。…えー、と…」
「…みんなにきらわれてたら、それなの?」


その瞬間、ぼくを見るその人の顔が歪んだ。
あの頃も時々、母様がぼくを抱き締めて泣くことがあったが、その2秒前の表情によく似ていた。


「みんながね、ぼくは透明なんだって。それって、つまはじき?」


その人は何か言いかけてやめた。代わりに見つけた言葉をぼくに投げかける。


「……ひどいことを、言われたりしたか」


ぼくは慎重に首を縦に振る。本当は誰にも言わないつもりでいたことだった。誰かに指摘されても秘密にしようと思っていたことだった。


「いつも、ひとりなのか」


ぼくはゆっくりと笑った。いつもの癖が出たのだ。父様や母様に、ひとりにしてごめんね、と言われた時にそうするように。


「…ごめん、冗談のつもりだったのに。まさか本当に、…畜生、そうかよ……胸糞悪いことしやがる…。ごめんな、青。オレが言ったことは忘れてくれ」


その人が言う。ぼくは言葉の意味がわからずに首を傾げる。
その人はやり場のない憤りと悲しみに言葉で蓋をしようとしていた。


「おにいちゃん、ひとりなの?」
「………そうだな。青、オレと一緒に遊ぼうか」
「ほんと…っ?」
「ああ。何がしたい?」
「本を読んでほしい!星のお話を読みたい。父様は忙しくて、たまにしか読んでくれないから」
「わかった。オレも星は好きだからな」
「いっしょだね」


その人は宏孝と名乗った。
自分は家族とも仲が悪く、親族会も嫌いで、滅多なことがなければ参加しないのだと言った後、「けど来てみたらべつにどうってことないんだな。飯がタダで食えるし。これからは青が寂しくないように、毎年来てやるよ」そう戯れに笑ってくれた。
ぼくはその人を「宏にい」と呼び、彼に会えると思えば、あれだけ苦痛だった親族会でさえ楽しみになった。
それほどに懐いた。けれど結局、彼に遊んでもらったのはその時を含めて3回きりだった。
(最近になって改めて貴嵯宏孝…キサ先生本人に理由を聞いた。どうやらその時、やむにやまれぬ事情から彼は家出をして貴嵯家から勘当され、親族会に出席することが不可能になったらしい。)


3回目の次、つまりおそらく8歳の時に開かれた親族会の、その日も宏にいに遊んでもらえると信じ切っていた。だから親族会の会場についてからの、ぼくの絶望感はかなり手酷かった。
思えばぼくの『失い癖』はここから始まっていたのかもしれない。
忽那木 珀亜と出会ったのは、その時だった。












(I'm...)




11.11/
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