4月の風を頬に感じながら登校する。今朝の夢がぼくの胸に靄をかけていて、今日から3年生になるという事柄の明るさを少しも感じることができなかった。
―――『おれはきみになりたかったんだ』
夢の中で、泣きながらそう言った彼。ぼくは彼のことをよく知っている。それも、幼い頃から知っていた。そして、苦手だった。
「(ぼくを羨んで恨んでいたあの子…。なんで今さら、彼の夢をみたんだろう)」
ぼくを睨む、若草色の瞳。仄暗く、淡い蒲公英色の髪。憎悪に歪んでも尚、整って美しい顔。カナリアのような声。
古い記憶に眠っていた彼のすべてが、夢ではひどく鮮明だった。彼を現実で最後に見たのはいつだったか。はっきり思い出せないほど昔だったか。
「(厭な気分だな……)」
脳裏に焼き付いた夢の光景がぼくの頭を重たくしていた。それでも体はいつも通りの道を覚えていて、ぼんやりしながらもなんとかぼくはトユカの家の前に辿り着いた。インターホンを押すと義務的な音色が空気に融ける。
「おはよう、観沙くん」
インターホンの音色の余韻から何秒経っていたのだろう。不意に声をかけられ、はっと前を見ると、トユカのお父さんが玄関のドアに寄り掛かって微笑んでいた。
「あ、えっと……おはようございます」
ぼくは慌てて頭を下げ、再び視線を戻す。
「赫夜は直に出てくるから、少し待っててもらえるかな」
「はい、勿論」
トユカの内面にある優しさが、お父さんの場合、目元に宿っているようだった。ただし、その目をまっすぐに見ると、厳しさやしっかりとした芯が奥に窺える。
たまにこうして朝、玄関で会うだけでも、トユカのお父さんの眼差しには、自分の奥まで見透かされている気がしてしまう。その度に言葉が詰まって、幽かな不安を覚える。
「浮かない顔だ」
沈黙を破ったトユカのお父さんの言葉が、ぼくの重たい頭をさらに掻き乱した。
「……今朝は、夢見が悪くて」
言い訳でもないのに、苦笑いをしながら返したせいか、さらに気持ちが沈む。
トユカのお父さんは少しだけ驚いたような顔をして口を開いた。
「そういえば赫夜もそんなことを言っていたな」
「え…?」
「春は期待と同じだけ不安が膨らむ季節だ。だから昔から我々は花を愛でて不安を和らげようとする。温もりの種類は選り好みせず、目の前の安心感を求めればいい」
難しいことをつらつらと吐き出すところは、さすが親子というべきか、トユカによく似ている。ぼくは言葉の意味を拾いきれずに、どうしたものかと唇を結んだままでいた。
「何を話してるんだ?」
トユカが、お父さんの背後から顔をだした。
「何でもないよ。お前は観沙くんを待たせすぎだ。支度ができたなら早く行きなさい」
お父さんの言葉に不満げな顔をしながらトユカが門扉を開けた。ぼくはトユカがお父さんに言葉を返す前に、その腕を掴んで「行ってきます」と歩き出す。
「行ってらっしゃい」
お父さんの声に振り返ると、もう玄関のドアは閉まっていて、その姿を見つけることはできなかった。
校舎の入り口はいつも以上に混んでいた。昇降口に張り出されたクラス替えの結果を見て、立ち尽くす人と、早々に通り過ぎる人。その違いがよくわかる。ぼくは視力が落ちてきたというトユカに合わせて、2人でできるだけ紙の近くへ行った。
「ミスナ」
「うん、トユカ」
「どうしたらいいと思う」
「ごめん」
「………」
「トユカ、どうもしなくていいんだよ」
「ミスナ、だって、」
「べつにどうもしないんだ。これが当たり前なんだよ、トユカ。君はわからないかもしれないけれど」
「ミスナ」
「ぼくらの日常にも、更新日がやってきたんだ」
「……行こう、ミスナ」
「そうだね、トユカ」
階段を上り、廊下を進み、ぼくらはC組の前で立ち止まった。トユカが教室に一歩足を踏み入れたのを見てから、ぼくは口を開く。
「じゃあ、またあとで」
トユカはぼくのリボンを見つめながら低くくぐもった声で「ああ」と悲鳴にも似た同意を示した。ぼくは誰からも見えないように、鞄の取っ手を強く握りしめているトユカの手に一瞬、たったの一瞬だけ触れる。気づいたトユカがまるで子供のような表情をこちらに向けたけれど、ぼくはそれをできるだけ見ないように素早く視線をそらして立ち去った。
ぼくの教室はA組だ。
A組の教室に入ろうとした時、「観沙君」と聞き馴染んだ声に呼ばれて振り返った。
カミシナ先生が、沈痛な面持ちでぼくを見ている。それを捉えたぼくは、自嘲がこみ上げてくるのを堪えながら唇を動かした。
「おはようございます、カミシナ先生」
ぼくが悲劇のヒロインか何かに見えますか。続けてそんな風に胸中で呟く。
先生はそんなぼくの黒々と渦巻く気持ちを知ってか知らずか、いつも通りの柔和な顔で話し始めた。
「おはようございます、観沙君。昨晩はよく眠れましたか」
「いいえ。今朝方、夢見が悪くてあまり眠れた気がしません」
「そうでしたか……」
「はい」
沈黙が5秒。この先がきっと本題なのだろうとよくわかる。準備秒間。
カミシナ先生はゆっくりと唇を開いた。
「恨みますか?」
ぼくはカミシナ先生のそんな優しい声音ひとつとっても、まるで貶されているような気持ちになってしまう。
「いいえ」
だから本当のことを答えた。カミシナ先生は、また沈痛な面持ちになって目を伏せる。
ぼくは先生に背を向けた。これ以上、厭な自分になりたくなかった。
「慣れていますから」
本当のことだけを口にしながら、カミシナ先生を置いて、ぼくは教室に入る。
この時にはもう、夢のことなんて忘れていた。
―――――−−
始業式が終り、放課後になると、ぼくはそれまで敢えて視界の外に追いやっていたトユカに会いに行くことにした。人がまばらに点在している廊下を進み、C組のプレートが見える位置までくると、廊下にトユカを見つけた。駆け寄り、声をかけようとして、
「だから今度、案内してよ」
聞こえてきた第三者の声に足がすくんだ。ぼくは言葉を失う。
トユカにべったりとくっついて、じゃれている男の子。トユカより背が高い。
トユカは厭そうな顔をしながらも抵抗していなかった。
「面倒だから他のやつに頼め」
「そんなこと言わずにさー。おれはカグヤに案内してほしいんだってば」
「断る」
ふと、トユカがこちらに気づいたようで、少し明るい表情で手を振った。
ぼくは全身が金縛りにあったように固まっていて、手を振り返すことも、笑うこともできずにいる。トユカではなく、その横の少年に釘付けになったまま。
「ミスナ…?どうかしたのか?」
「ちょっとちょっと、赫夜くーん?おれは無視かよ」
トユカが近づいてくる。一緒に、横の少年も。
―――『おれはきみになりたかったんだ』
夢の声が再生される。
ああ、見かけない顔だというのに、その少年の顔をぼくは知っていた。認識したくない。夢で見た彼が、まさか、そんな。
「そうだ、こいつは今日から編入してきた―――」
トユカが何か言っている。横の少年を紹介している。
けれどぼくはそんな情報を耳にいれることもできず、悪夢に意識を奪われていた。
トユカの横の少年が笑う。落ち着いた若草色の瞳。仄暗く、淡い蒲公英色の髪。
夢と違うのは、肩につかないラインでばっさりと、髪がまっすぐに切られていること。右耳の後ろ、恐らく後ろ髪の生え際のあたりから、不自然に一房だけ長い髪が伸び、胸のあたりまで垂れていること。 エクステ…か何かだろうか。真新しい制服の着こなし方から見ても、全体的にイマドキの少年といった風体で、夢とは経ている時間が違うのだとぼくに思わせた。
けれどその瞳の色や髪の色、美しい顔だちが、紛うことなく“彼”だと証明している。
ぼくを見る少年のその笑みが、夢ではなく現実に、そこに存在している“彼”だと語っている。
「あ、あ…ああ……そんな…うそだ……」
自分でもひどく弱々しい声で、小さく叫んだ。嘘じゃない。わかっている。これ以上ないほど、わかってしまっている。
トユカの横の少年が、いや、“彼”がぼくを見つめて笑う。
ひどく残忍な笑みで、ぼくの名前を口にした。
「やあ、青」
「珀亜……っ、なんでここに」
ぼくは声が上擦りそうになるのを必死に抑えた。
「なんでだと思う?」
彼は愉しそうに、トユカの肩に手を回して、トユカの顔に自分の頬を寄せて、戸惑うトユカを無視して、そんな事柄すべてにぼくが言い表せないほどの感情を抑え込んでいるのを見越して、彼は――忽那木 珀亜は言った。
「きみのためだよ」
そこからぼくの世界が瓦解する。
ドロップオフ
11.10/30
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