世界はぐるぐる、ぐるぐる回ってる。
知ってる?
地平線がつながってるみたいに、誰かと誰かもつながってる。
知ってる?








「…宏にい」


先生が目を見開く。それほど驚いているのか、硬直しているようにも見える。
想像以上の反応。面白いから、連呼することにした。


「宏にい」
「な、なんで」
「宏にい。宏おにいちゃん」


ああ面白い。先生が、あわあわ。ぼくは、にやにや。この状況は不思議だなぁ。
渡り廊下でにらめっこ、という状況。ぼくが先生へにじり寄ると、かえって先生は一歩後ずさった。


「何で、その呼び方っ…知ってるんだおまえが!!」
「一緒に暮らしてれば嫌でも思い出しますよ。幼い頃の記憶とはいえ」
「う……」
「親族会に連れられて、退屈してた子供。爪弾きのぼくと遊んでくれる、高校生の宏にい」
「そうだよ…、そうだった」
「苗字までは知りませんでした。ぼくも、思った以上にあの頃は幼かったんですね」


先生は溜息をついた。観念したようだ。


「それもあるが、観沙家は他の華族と異なるからな。分家も多いし、…それにうちは、前も言ったけど、かなり遠いんだ。おまえのとこの本家と比べて、うちは親族会でも隅に座る弱小の分家。本家の人間にはほとんど憶えられてない」
「宏にいがいなくなってぼくはまた爪弾きだったんですよ。親族会の間、子供達が遊んでいる広間で。苗字くらい知っていれば探せたのに」
「仮におまえが苗字を知ってたとしても、オレのことは探せなかっただろうよ。オレは家出した。勘当者だからな。おまえが周りに訊いて回っても、あの場の人間は誰も、絶対に答えなかったはずだ」
「うちの家政婦さんなら、」
「ああ、そうだなー。今おまえの家で働いてるあの人なら答えたかもしれない。オレのこともよく知っているし、心の広い人だから」


先生が煙草をポケットから取り出す。


「タバコはやめてください」
「……。だめか」


吸わずに煙草をしまうと、先生はふぅと短く息を吐いた。


「ただ、本家の…おまえの祖父様の屋敷の家政婦は、答えなかっただろう」
「父さんが失踪してから、母様への風当たりは強かったですからね。ぼくも忌み子みたいな扱いを受けました。これでも本家の三男の息子だっていうのに」
「当の祖父様はおまえのことを大事にしていたみたいだぜ。これも前に言ったことのおさらいみたくなるけど、オレがロートシュルツ学園のなかで自由が利くのは、観沙家の後ろ盾があるからだ。観沙家…王星グループはかなり資金援助してることだし、当然とは思うが、おまえがいなければオレなんて他の教師と変わらない。おまえがいるから観沙家がオレの後ろについたんだ」
「お祖父様は、ぼくのことを憐れんだだけです。あの人は母様のことが本当に嫌いだったから。ぼくは父さんに、たまたまよく似て生まれただけ。母様からぼくを守るようなつもりだったんでしょう」
「それもあるだろう。けど、観沙の名前は影響が大きい。おまえの同級生たちも、トユカがくる前はおまえに関わろうとしなかったろ。家柄があまりに違いすぎて、とっつきにくかったのかもな。多少の陰口は…」
「ありましたね」
「それも含めてオレがセーブしなくちゃいけなかったんだけど、できなかったな。神志那先生じゃなくてオレが担任だったらもう少しなんとかできたと思うか?神志那先生は優しくて人望のある先生だが、直接的な解決力がないから」
「キサ先生でもできなかったんじゃないでしょうか。カミシナ先生だってがんばってましたけど…。家がどうとかってことより、ぼくのコミュニケーション能力に問題がありましたから」


トユカが転入して来る前のぼくは、いわゆる“目立つ存在ゆえに無視される”奴だった。
もしかするとヒエラルキー的には頂点だったのかもしれない。ただし見向きもされない頂点。
『そこの女みたいな名前のやつ、今日から俺の友達になるか。なるな、よし、なれ』
教室に入ってきた瞬間、美しさで教室中を騒然とさせたトユカは、逆にこの一言で教室の空気を凍らせた。たぶんそれがきっかけでトユカがヒエラルキーの頂点に位置づけられ、ぼくはその隣に括弧で表示されるようになったんだと思う。


「でも、そんなぼくごと…すべて、トユカが解決してくれた」


ぼくが言うと、先生は厭味な笑みを浮かべた。


「まあ、あいつはケンカも強いしなぁ。女みたいな顔して、飄々とパンチを躱しやがる。無駄な動きはしないし、そのくせ一瞬で相手を戦闘不能に追い込む、あの蹴り。どこでそんなスキル身につけたんだか…。あいつのケンカを見てると感心するよ。下手したら昔のオレと張り合えるくらい強い」
「ケンカは良い事じゃありませんよ、先生。大体、見てないで止めるべきでしょう」


「そうだそうだ。別に好きでやってるわけじゃないんだから止めろよな」


唐突に割り入ってきた声に驚いて振り返ろうとする。と、振り返る前にトユカがぼくの肩に顎をのせてきたので顔を動かせなかった。


「トユカ、なんでいるの」
「お前を探してたんだ。理科室にもいないし。そしたら渡り廊下に、バカ教師のつんつん頭が見えた。…むかつくけど、貴嵯がいるとこにはミスナもいるからな。ほんと、なんでいっつも一緒にいるんだよ、腹立たしい」


ぼくの肩に顎をのせたまま、ふごふごとトユカがふて腐れている。
それを見て、先生が勝ち誇った顔をした。


「ケンカばっかりしてるからオレに観沙をとられるんだよ、バーカ」
「!!っ、ふざけるなこの似非教師!あんたがもっときっちりあいつらを取り締まればいいのに、俺にばっかり反省文書かせるから、あいつら全然懲りずにリターンマッチとか言ってケンカ売ってくるんだろっ」


先生の挑発にこうもあっさり乗せられるようでは、そりゃあ不良にケンカ売られても買ってしまうんだろうなぁ…。とは思っても言えず。ぼくは眉を顰めながら黙っていることにした。


「あー、そうかい。そりゃ悪かったなぁ。オレはなー、兎床。ケンカの勝者には、敗者の2倍の量の反省文書かせることにしてんだよ。そういう信条なのー」


にやにやと先生が間延びした声で、敢えてトユカの神経を逆撫でしているのがぼくにはわかる。恐らくトユカもそれはわかっているんだろうけど、いまいち考えが『自分が挑発され、且つまんまと乗せられている』という事実にまでは至っていないようだ。


「おい、それってまさか俺限定とか言わないだろうな…」
「そうだっけ?そういや、こないだ香西が1年坊主2人組に因縁つけられて、それにキレた弓谷が1年坊主と乱闘起こしたな…」
「先生…それって、たしか弓谷くんが余裕で勝ちましたよね?」


ぼくが言うと、先生は「あーそうそう」と流しながら、トユカを見てにやりと笑う。


「あー、あのときはうっかり弓谷も1年坊主も同じ量の反省文だったなぁー。あっはっはっは、うっかりしてたぜ」


その瞬間。先生の言葉を聞いたトユカの何某かがぷっつんと切れる音が、ぼくには聞こえた…様な気がした。


「まあさ、ミスナがあんたのこと気に入ってるみたいだし、俺もある程度は世話になってるから…不本意ながら色々と大人しくしてたけど…」


トユカがぼくから離れて、わなわなと震えだした。先生は笑いを押し殺すのに一生懸命という感じで俯いている。


「ちょっと落ち着きなよ、トユカ…。先生におちょくられるのはいつものことだろ…。ここで本気になっても、君になんの得もないよー…?」
「いいや、もう我慢ならん!貴嵯を教師だとは金輪際認めないぞ!というか本当にいつか絶対、ぶっ飛ばす!!」


握り拳を突き上げながらトユカが叫ぶと、先生は弾けたように笑いだし、仕舞いには笑いすぎて苦しいとでも言わんばかりに前屈姿勢になってしまった。
あまりにも爆笑が長いので、ぼくが仕方なく先生の頭を軽く叩いて止めたぐらいだ。


「いやー、すまん。冗談だよ、冗談。あまりにも兎床がちょろすぎて笑ってしまった」


やっと落ち着いた先生がそんなことを言うので、トユカがまたむすっとしたけれど、ぼくが若干乱暴に頭を撫でるとあっという間に大人しくなった。…まあ、…先生の言うことにも一理あるよなぁ……「ちょろい」って言っちゃだめだけど…。
とりあえずトユカの代わりにぼくが先生に文句を言うことにした。


「生徒指導の先生が生徒を挑発してどうするんですか、もう…。そもそもその反省文の量にしたって、あからさまに個人的な理由でトユカを目の敵にしているのに、よく他の先生に指摘されませんね」
「ああ?んー、まあ大丈夫だよ、観沙。反省文の量は勝者を倍にしてるけど、内申書に傷がついてるのは敗者だから」


ぼくとトユカが揃って絶句していると、先生は意外そうな顔をして続けた。


「何驚いてんだよ。心配しなくてもそこのバカは一度も負けてないだろ?」
「いや、そういうことじゃなくて…。敗者が内申点マイナスって…残酷じゃないですか?」
「兎床は基本、ケンカ売られて巻き込まれてる側だろ。うちの学校じゃ、ケンカを買った奴より、ケンカを売った奴のほうが罪深いって事になってるからな。だから兎床がらみのケンカで罰が重くなるのは敗者、ってこと」
「なるほど…でもあっさり兎床に負けてしまった人たちが先生からしてみると可哀想だから、反省文の量は兎床のほうが多い、と」
「そうそう」


ぼくの推論に先生が軽く肯定する。トユカはどうやら釈然としない様だった。


「そうそう、じゃないだろっ。そもそも貴嵯の反省文を真面目に書いても何の足しにもならない」
「てめえ…そういうのは真面目に書いたことがある奴が言う台詞だ」
「いつも真面目に書いてるだろ。あんたの目は節穴か。これだから歳くって耄碌した教師は…」


この2人は、顔をつきあわせたら口喧嘩する以外にないのだろうか。


「ふざけんな!生徒指導室に筆記用具も持ってこないで、オレが目を離した隙に窓から逃亡するような奴に非難されてたまるか!つーかオレはまだ20代だ!」
「そもそも逃げられてる時点で、監督不行届じゃないのか?頭の中がミスナセイのことでいっぱいで、トユカカグヤを逃がしましたーなんて言い訳は通用しないからな、変態教師」
「ああ゛?んだと、この腐れチビうさぎ!そもそも逃亡者に監督不行届だの何だのと言われる筋合いは無いんだよ!」
「あれーおかしいなあ、ミスナのこと考えてたってのは否定しないんだ?へえー」
「こん…のっ、クソガキ!教師への暴言で減点して生徒指導あげんぞ!」


とか言って、トユカのこういう暴言はなんだかんだ生徒指導にあげないでスルーしてくれるから、キサ先生は優しいと思う。
このままでは埒があかないし、どのタイミングで止めようかなあ。


「貴嵯先生、それから兎床君。渡り廊下で騒ぐのはやめてください。とても迷惑ですよ」


ぼくの迷いを打ち消したのは、カミシナ先生の声だった。穏和な雰囲気を纏いつつ、はっきりとした正義感ある面持ちでこちらに近づいてくる。見ると、いつの間にかキサ先生はトユカから離れていた。溜息を吐きながら、髪を掻いている。
トユカはまだ気が収まらない様子だったので、ぼくが両肩に手を置いて、カミシナ先生の方に体を向けさせた。


「君もですか、観沙君」


カミシナ先生に問われ、ぼくは無言で首を横に振る。
キサ先生がすかさず前へ一歩出た。


「神志那先生。私がそこの兎床と、反省文について議論しているうちに少し熱くなりすぎただけです。観沙は無論、兎床も悪くはありません」
「そうですか…。いや、僕は誰かを咎めようという気はありませんよ。ただ他の先生方にまで話が回らないうちに止めにきただけです。渡り廊下が通りづらいという生徒もいましたから、できれば次からは場所を変えて下さい」
「…はい。すみません」


キサ先生が軽く目を伏せる。
「それから…」と、カミシナ先生はトユカとぼくに視線を移して微笑んだ。


「もうじき完全下校時刻だ。そろそろ帰りなさい」


カミシナ先生に優しい声でそう言われてはさすがのトユカも引き下がる以外の選択肢が見つからない様で、「わかりました」とぼくの代わりに答えていた。












「もう俺たちは2年生なんだな…」


帰り道、トユカがそんな事を言い出した。


「そうだね」
「今はもう冬で…次に春が来たら、俺たちは3年生」
「それがどうしたの?」
「厭だな、と」
「ええ?なんでさ」


ぼくの問いに、トユカは暫く黙り込んで、それから溜息を吐いた。


「うちの学校は、毎年クラス替えがある…んだろ?」
「そうだね。幼等部の時はなかったけど、初等部から高等部はクラス替えが毎年行われるって決まってる」
「中等部も変わりなく」
「うん。だって去年も有ったじゃないか。それでクラス替えがどうしたって言うの?」
「厭な予感がするんだよ、ミスナ」


ぼくが横を歩いているトユカの顔を見ると、トユカもぼくの顔を見ていた。ひどく真剣な顔だった。


「同じクラスになれるかどうかなんて。わからないよ、トユカ。今ぼくたちが同じクラスなのは偶然かもしれない。そういうのはみんな平等だろう?」
「偶然?平等?本当に?ミスナは偶然だと思うのか?」
「ねえ、それって、またぼくの家の話…?」
「ごめん。貴嵯が絡んでいるかもしれないと、思っている」
「それは……」


トユカの考えもわかる。けれど、ぼくまでそう認めたら。


「それで今度のクラス替えはどうなると思うの?」
「………今度はもう、ミスナと離れる気がする」


ああ。だめなんだ。
ぼくもそう思う、と。認めたくないんだ。
根拠はいくらもない。幾ばくかの確定要素もない。
もうぼくには母様がいないこと。それによってぼくの心が安定しているという、誰かの評価がどこかに転がっていること。その報告を受けたお祖父様がぼくから一時、関心を無くす可能性。それを逆手にとって、キサ先生が望むとおりに学校が動かなくなる可能性。
キサ先生が学校側にとって、或いは他の先生から見てどんな立場なのかはわからない。本当に自由なのだろうか。息苦しい立場じゃないのか。だって巨大なバックがあって好きに振る舞える、なんて。どこまで本当だかわからないけれど、それが本当なら他の普通の先生に良く思われるわけがない。
カミシナ先生は良い先生だよ、とキサ先生は言う。じゃあ他の先生は?
クラス替えは他の先生とも議論しなくちゃいけないんだ、とキサ先生は言っていた。じゃあ今度のクラス替えは?


「…だめだ」
「ミスナ…?」
「だめだよ、トユカ。考えちゃいけない。こんなこと、大人を疑うなんてこと、今からしていたって仕方がないじゃないか。やめようよ」


ぼくが形だけ笑うと、トユカはほんの一瞬眉を顰めてから、顔を背けた。


「そうだな」


言葉が夕闇に霧散していく。















( ぐるぐる回る。回っていく。 )




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