店を出ると、夜の肌寒い空気が呼吸をするたびに肺を満たした。
星がみえるはずの夜空は、あかるい街灯と満月の所為で単調だ。
きっと目を凝らしても牡牛座はみつからない。南の空をみても建物や街灯が邪魔をするだろう。それに季節もまだ、冬にはなりきれていない。(記憶が正しければ、たしか南から見える冬の星座だったはず)
ぐるぐる巡る悲しみもとまらない。


(さむいなあ。胸の奥が冷たくって、どうしてこうなるんだろう。…トユカに会いたくて仕方ないのに、まだこわいなんて。……先生は、わかってくれてるのかな。ぼくが今、ひどく悲しくて吐き気がするほど寂しいって。ああ、でもこんな勝手な期待は良くない。ぼくはどうしてこの人に甘えてしまうんだろう。)


先生の背中をみつめながら歩いていると、不思議とこういうくだらない考えも背中越しに伝わってしまっている気がした。


「観沙」


そんなタイミングで呼ばれて、ぼくは慌てる。


「な、なんでしょう」
「寒くないか?」
「あ、大丈夫です」


風が冷たい。3秒くらいの間。


「…心も?」
「えっ」


ぎくり。として声が裏返る。
気付いた先生が、振り返ってぼくの顔をのぞき込んだ。


「心は寒くないか?って、」
「あ、ああー!はいっ。大丈夫です、もちろん!」
「…その様子じゃ大丈夫じゃないんだな…」
「信じてください、大丈夫です…!」
「あのな青、こういうのは信じる信じないの問題じゃねえだろ」
「ぼくはキサ先生を信じてますよ?」
「…。…わけわかんねえよ」


ふい、と先生が前へ向き直り、ぼくはひそかに微笑んでいた。動作や口ぶりからなんとなく、先生が照れているんじゃないかと思ったから。でもどうだろう、ぼくの角度からは先生の顔色を窺うことができない。
そういえば、結局先生にあの店を紹介した人、恋人なのかって聞きそびれた。そんなことに、ふと気付く。
まさか今さらそんな話を蒸し返すのも申し訳ないし、それに……たぶん恋人だろうなぁと思うから、余計、気になるんだ。
今でも先生はその人のことを考えているんだろうか。ぼくに似ているという、その人。
もしかして、が脳裏に浮かんだ。もしかして、先生はぼくとその人が似ているから、ぼくを大事にしてくれるんじゃ、ない?
(もしそうだとしたら、まるで母様みたいだな。ぼくは結局、誰かの代用品にしかなれないのか。)
先生はそういう風な考えでぼくを守ってくれてるわけじゃない、そういう歪んだ人じゃない。そんなこと解ってる。わかって、いるけど。


「昔の話だ」


前方から、背中越しの玲瓏な声が響く。ぼくはまたしても驚いて、咄嗟に反応できずに無言をかえした。


「昔な、神サマってもんに祈ったり、挙げ句には恨んだことがある。だけどオレは科学とか星座とかに関心はあっても、神サマだとかそんなもんに信仰心はねえから。なんだろうな、血迷ったのかもしれない。守りたかった人を守る、役割がオレにまわってこなかった。きっとそのせいだ」


先生が、いつになく早口だった。いつの間にか取り出した煙草のケースをいじっている。どうやら吸う気はないらしかった。歩き煙草になるから已めた、というよりは純粋に手慰みを目的に取り出したようだ。
ぼくは気になっていたこととイコールで結ぶことができる回答を求めて問いかける。


「その、守りたかった人とはどうなったんですか?」
「どうもならないよ。言っただろ、役割がまわってこなかった、って。 その人はオレと知り合ってすぐ、オレじゃない先輩と結婚した。出会ったときから、仲むつまじいカップルでね。ただまあ2年くらいかな、それくらいですぐ離婚したけど。オレはその人も、相手の先輩もだいすきだったから、傷心のその人を奪うとかそういう、ふたりを裏切るような真似はできなかった。本当にな、オレのこと可愛がってくれて、大事にしてくれて、すごくいい人たちだった」


だからオレは逃げた。
先生が寂しそうに呟く。


「そんなこと、」
「あの人の夢だったんだ」
「え?」


先生の痛みを被いたくて発した言葉は、思いがけず遮られた。
愛したひとの夢?
ぼくは早足で追いついて先生の隣を歩きはじめる。先生は煙草を仕舞った。


「教師になることだよ。あの人の夢だった。否、オレとあの人の夢か。あの人は離婚のことで親とごたついて、色々失敗して、大学を中退して…教職につくことはあきらめてしまったけど。オレだけはちゃんと…ほら、こうして教師やってるだろ?あの人との約束だったからな。色々がんばった」


自嘲気味に声をたてて先生は笑う。
ぼくの知らないキサ先生が、そこにいた。たとえ、特別になれたとしても、先生は自分だけのものではない。そんな、当たり前のことを再認識する。自分の大事な居場所を盗られたような心地になって(、それはひどく子供じみた独占欲であったにも関わらず)、ほんの1ミリの嫉みがひっそりとぼくの胸に芽吹いた。


「…ぼくは、その人の代わりですか…?」


口にしてはいけなかった、馬鹿げた猜疑が唇から洩れる。くぐもって小さな声だったけど、先生は聞き逃してくれなかった。


「はあ?なんでそうなる」


言って、視線をこちらへ投げかける。


「だって…。…否……なんでもありません。忘れて下さい」


よくよく考えてみれば、ぼく如きがその人の代わりだなんて有り得ない。随分な自惚れだ。
恥ずかしくて言えやしない。


「おまえなぁ…そうやって言い含むなよ」
「…先生こそ、どうして急に昔話なんて」
「ん。…ああー…言い訳したくなったんだ。今日は教師じゃいられないような失言が…、たくさん…」


喋りながら段々と何かを思い出したらしく、立ち止まった先生の顔はみるみる蒼くなった。


「せんせい?どうかしたんですか、キサ先生?」
「あー、くそ。…いいんだ、大人の事情だよ、観沙」
「わ、う」


唐突にくしゃくしゃと髪を掻き撫でられ、ぼくは縮こまる。
ぼくから手を離した先生は、ゆっくりと息を吐き、再び歩みだした。ぼくもそれを追うように脚を動かす。


「教師をやめようかと、思ったこともある。そもそも向いてないし、立場の難しさに疲れたりもした、ありきたりな挫折だ。一生徒を守りきる力もないくせに何が教師だ、なんてな。何かに属しているからなのかと思った。いっそ個人として居る方が自由に身動きがとれるんじゃないか、って」
「…それは、ぼくが」


原因ですか、とは訊くまでもなかった。


「そうかもしれねーな。けど、最終的にはオレの感情の問題だ」
「おまえは直系だからわかってるだろうけど、観沙の家の力はな、相当に大きい。嘘みたいな話だ。華族の流れを汲む財閥の家の当主で、有名な王星グループの会長。そんなおまえの祖父様がうちの学園に睨みを利かせてるお陰で、オレはある程度自由に動ける。おまえを守るための駒として、第二の保護者として、だ」


でもそれは、見守ることしか許されない。教師と生徒という立場関係は絶対に崩せない。これは倫理の問題だ。教師と生徒がともに生活するなんて、本来ならば絶対に許されない。いくら遠い血縁だからと言っても、おまえの祖父様だってオレにそこまでさせる気は無かった。


「知らなかった顔じゃないな」
「え?」
「いや、驚いてない様子を視るとおまえ、オレが遠い血縁だって知ってたんだなぁと思って」
「知ってたというか…鹿垣さんの口振りから推量してただけです」
「……それだけ?…まだ、思い出してないのか?」
「はい?」
「あ…いや、こっちの話だ。忘れてるんならそれでいい」


先生は居心地の悪そうな顔をして髪を掻いた。


「話戻るけど…。 実を言うとな、ずっと前からオレはおまえを手許に置きたいと考えてた。おまえと母親との問題は、見過ごせるものじゃない。その為に半ば教師をやめる気になってた時だ。兎床が転入してきた」


先生の話に集中していてすっかり周囲に注意を払うのを忘れていた。気付けば、マンションの前まで来ている。


「僥倖に恵まれた。兎床はまさに牡牛座のアルデバランってとこ。知ってるか、観沙。占星術においてアルデバランは富と幸福の前兆、幸運の星らしいぜ。ロイヤルスターの1つらしい」
「知ってます。うちの王星グループの名前の由来はそのロイヤルスターだって、幼い頃父に聞かされました」


先生は「だろうな」と言って苦笑した。


「オレが出来なかったこと、この先個人としてやろうとしていたこと全部、兎床にまかせる気になった。だから教師も続けてる。兎床が出来ないことを、教師という立場から見守ることを、オレがやろうと思ったから」


ふたりともエレベーターに乗り込む。


「おまえがオレのところへ連れてこられたときは驚いた。いくら医者の判断だからって、オレ如きにおまえを預けることにおまえの祖父様が納得するなんて有り得ない話だ」
「5分です」
「?」
「5分だけ、お祖父様がぼくに会いに来ました。息子が、ぼくの父が失踪したのは母様が原因だ、って。だから母様のことが嫌いだ、って。父さんの形見だから、母様から守ってあげるんだ、って。…話に聞いたとおりの人でした。自分の血筋以外はみんな敵だとでも思っているような、そんな口ぶりでした」
「…そうか、会ったのか。…それで、か」


エレベーターから降りて歩く。先生は深く息を吸い込んで、言葉を選んでいるみたいだった。そのうちに辿り着いた扉の鍵を開け、玄関に立つ。ぼくが明かりのスイッチを押して、帰ってきたという実感が湧く。おかしな話だ。ここは所謂、ぼくの第二の家というやつだな、と自然に思った。




「おいで観沙」


部屋にあがってすぐ、左手の壁際にある先生のベッド、そこへジャケットを脱いだ先生がベッドの長方形に対し斜めになる形で倒れ込み、片腕をあげてぼくを呼んだ。ぼくはそれに従い、先生の隣へ寝転ぶ。
先生はぼくを抱き寄せた。まるで猫に対するそれと同じ仕草だった。
ぼくが先生の胸板に顔をうずめ、先生が大きな手のひらでぼくの髪を撫でる。目を瞑って先生に包まれているのを感じると、冷えた胸や頭の隅に押し隠した悲しみという悲しみのすべてを許されているような、ぼくを被っている虚勢の蝋が融けてしまうと同時に、そのまま先生へ染み入って先生の愛情や煙草の馨の一部として帰依することができるような錯覚を、現実として受け入れてしまいそうになった。
それにつれて、じわりと眦に熱い滴が浮かび上がる。涙はまるで傷口からあふれでる血液のように、とめどなく、(このまま止まらなくなったらどうしよう)、ありきたりな不安をおぼえるほどに、とくとく、とくとくと流れて頬を濡らした。
先生のシャツを濡らしてしまわないように、自分のセーターの袖を顔に宛がうと、自分が泣いているという事そのものがなんだかひどく馬鹿げたことに思えた。それでも泣き止むことはできないのだから、始末が悪い。


「青」


柔らかなテノールが鼓膜をふるわす。
それがとどめとなって決壊を招いた。ぼくは泣く。声をあげて、子供のように、安定しないボリュームの慟哭は幾度噎せ返っても止まらず、何がなんだかわからない不思議な力に及ぼされて(、たとえばそれは宇宙から義務づけられた引力のような本能によって)ひたすらに泣き続けた。その最中に「ごめんな」とキサ先生が謝った意味や原因を理解することがぼくにはできなかった。
細胞ひとつ分でもよかった。その時の先生の言葉を深く捉えて、自分が今まで泣くのを堪えていた事実に目を向けることができたなら、ぼくの、ひいては先生の傷をこの先いたずらに増やさずに済んだのだ。
けれどぼくにはそれができなかった。
この馬鹿げている莫大な質量の悲しみと、全身に感じている温もりは明日には消えて、それが一時的であろうと半永久的であろうと、途切れてしまう恐怖に怯えているぼくが確かに存在している。
はじめから何も手に入れてはいないから、だから何も失うことはない。そう、思っていた。昨日まではそれが、ふざけた話、ぼくのなかの信念のようなものだった。
けれど今、この居場所を、キサ先生という存在から離れていくことを懼れているぼくは矛盾に気付いてしまった。ぼくは今まで自分を騙しながらも、この居場所を近い将来失うことを予想していたのだ。失う宛にしていたのだ。
明日のぼくは此処にいない。それでも失う宛先であるところのキサ先生は此処にいる。明日も、明後日も。失う宛を、ぼくは亡くすことがない。仮にそう信じたいだけであっても、ぼくにはトユカがいるのだ。
ああ、なんて、なんて卑怯な安心だろう。ぼくはなんて醜い人間なんだろう。
それなのに、それを知っているはずの先生は、どうしてぼくを 愛 し て い る んだろう。


ぐるぐると考えていると、いつの間にかぼくの悲しみの勢いは弱まっていた。慟哭の残り滓のような自分の嗚咽を他人事のように感じながら、疲れが運んできた眠気の波をたゆたう。
ここは居心地が好すぎる。だから、もしかしたら。
愛がくずれませんように。そう祈りながら、ぼくは微睡みにおちて意識を手放した。














10.04/29


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