青黒い空がひときわ浅くみえるあたり、ちょうど月と名付けられた白い穴を眺めている。観沙がそうして長い時間、窓際で膝を抱えているのを知っていた。否、実際に見ていたわけではないが、扉をあけて観沙の姿をこの目に映した瞬間、不安をおぼえた。朝、自分が仕事に出掛ける前に確認した位置から、ひとときも動いていないのでは、と。



「…観沙」



満月は明るい。眺めているのを邪魔しないよう電気はつけず、重たいバッグをベッドの上に放って、観沙に近づく。呼ばれてからやっと、観沙はこちらへ視線を滑らせた。いつもなら当たり前のように微笑むタイミング。だが、観沙は無表情のままだった。以前の面影が失せてしまいそうなほど、観沙は揺らいでいる。ここのところ、ずっと。



「おかえりなさい」
「え、ああ…。…ただいま」



笑わない人形から発せられた、思いがけない言葉に戸惑った。
よくよく考えてみれば、当たり前の発言だ。何もおかしなことはない。弱々しい声音に狼狽えた自分すら、馬鹿馬鹿しく思えた。もう3日目だ。慣れて然るべきだろう。



「何も食べてないのか」
「いいえ。食べましたよ、すこし」



下手な嘘を云う。
本来なら、どうせ嘘をつくなら。もっと巧緻な嘘を吐くはずの、この少年が。



「待ってろ。今、何か作るから」



シャツの袖をまくりながら、まずは洗面所だな、などと考えた。その歩みを、



「先生」



観沙の一声で止められる。



「ぼくの分は要りません。いいんです、気を遣ってくれなくても」



痛い。その制止が痛い。その遠慮が、疲弊が、脆弱さが。
目の当たりにするには、痛すぎる。
本当は空腹なんだろ。食事とらなきゃ体力がもたねえだろ。ガキが遠慮するんじゃねえ。
溢れかえるほど、云いたい言葉が浮かんだ。歯噛みして、まだ堪えきれない感情が目頭から滲み出そうになる。震えながら深呼吸して、やっとひとつだけ。



「食欲がないのか」



当たり障りのない、問いを投げる。振り返らず、後ろ背に返答を待つ。
視界に入れてしまえば、観沙は無言で頷くだろう。それでは意味がない。たとえどんなに虚ろな声でも、今は聴きたかった。はっきりと、存在を確認したかった。



「…吐き出してしまうんです」



数秒後に届いた答えは、YesでもNoでもなかった。不意打ちに驚いて、つい振り返る。



「テーブルに置いてあった、パン。一応、ほんとに食べたんですよ」



云われてテーブルを見てみれば、たしかに1つ減っているような気もする。



「でも、すぐに気持ち悪くなっちゃって。…戻してしまいました」



観沙はそう言って、苦々しく無理に微笑んだ。
だから結果的にさっき、食べた、と言ったのは嘘になりますね、と。



「そうか…おまえ…食べられないのか…」



じんわりと与えられたショックが、眉間の皺を増やす。



「すみません」
「…っ、謝るな…!悪くないんだ、観沙。悪くないんだよ…おまえは…」



どうすればいいだろう。食事を拒ませるほどの精神的苦痛を、どうすれば取り除いてやれる?
考えても、考えても。弾き出される解答は“不可能”で。思い知る、自分が無力だということ。





3日前からだ。3日前から、観沙は此処にいる。
観沙の家に雇われている家政婦から聞いた話によれば、その日休暇をとって家にいた【彼女】はいつもより酷く観沙に当たっていたらしい。それだけならまだ観沙は耐えられる。けれど。
自室にこもって、昼食をとりにこない母親の様子を見に、観沙は寝室の扉を開けたらしい。



紅い染みのあるシーツの上から【彼女】が言った。
――貴方がどうして此処にいるの。
観沙は答えなかった。母親が言う、貴方、が自分のことではないと判ったから。
――貴方はいつもそう。わたしの邪魔ばかりして。
【彼女】が立ち上がり歩み寄ってくる。その後ろに紅い染みが、さらに広がっているのが見えた。
――貴方さえいなければ。翠だっていなかったのに。
観沙の首に彼女の指が触れる。観沙はただ彼女に届かないように、ごめんなさいと囁いた。
――貴方さえいなければ、こんなに苦しくなかったのに。あんな子、要らなかったのに。
【彼女】の疵だらけの手首に幾条か、鮮やかな赤がある。直視すれば胸が痛んだ。
――貴方にそっくりな、あんな子は要らなかったのに…ッ!
生温い血液が伝う冷たい手。観沙の首が絞められる。圧迫音と摩擦音。
苦しみと哀しみに涙が止まらなかった。
幼い頃にみた、やさしい父親の姿を思う。それからその頃、温かかった母親の手を。あのとき、自分の名前は青だった。今、【彼女】が愛してくれる、いい子の翠なんて、どこにもいなかった。確かに、あのとき自分は青い鳥だったんだ。
美しい母親の泣き顔を脳裏に焼き付けて、観沙は意識をとじた。



戻ってこない観沙を心配して家政婦が【彼女】の部屋をたずね、惨状を目の当たりにした。俯せに倒れ気を失っている少年の首には痣。うずくまって眠っている【彼女】は手首から血液を流していた。
幸い、切り方が浅かった【彼女】の出血は致死量でなく、観沙も失神状態から直に目を覚まし、大事には至らなかった。観沙が死神の手をとる一歩手前で、【彼女】の体力がつきたようだ。



観沙の家で何が起ころうと通報することは許されない。けれどこのままでは精神衛生上、危険だ。【彼女】にとっても、観沙にとっても。
そこで、【彼女】を隔離できないなら観沙を遠ざけよう、というのがかかりつけの医者の判断だった。祖母が亡くなった今、観沙の事情を理解している大人は少ない。一人暮らしということもあり、必然的に貴嵯宏孝の名が挙がった。血縁も薄く、ややこしいほど遠いが一応、父方の親戚なのだ(、ただし観沙はこのことを知らない)。そうでなくとも、可愛い教え子の面倒をみることに異論はなかった。



空虚。家政婦が連れて来た観沙を視て、絶句した。ふたつの翠玉は澱み、表情がない。まず何より、どこも視ていないし、なにも聴いていなかった。美しい人形の時間が留まっているように。
しばらく何処へも出掛けられない、と思った。無論、学校など行けるはずもない。
預けられてから今朝まで、観沙は何も喋らなかった。






「キサ先生?」



月を眺めていて心境が変わったのだろうか。観沙は言葉を発するほど回復していた。
それはとても淡い声だけれど。



「ねえ、せんせい。…ごめんなさい」



静かに、ゆるやかに呟かれる。
堪えきれなくなって、観沙を抱きしめた。ほそくて、ちいさくて。力をこめたらあっけなく壊れてしまいそうな躰を、抱える。
まだ13年しか生きていない、子供じゃないか。稚い少年じゃないか。
なのにどうして、観沙はこんなに。
どこにもみえない神様とやらに、これが現実だと告げられたようで辛かった。



「っ…観沙。…オレは、どうしたらいい…?」



大人になったはずだった。これによく似た、激しい胸の痛みを味わったことがある。もうあんな思いはしない、と。だからこの先は大丈夫だ、と勘違いしていた。



「先生も、泣くんですね」



窓のそとに浮かぶ月の背をなぞるように、観沙が笑ったようだった。



「いいんです。ぼくは、こうしてもらえるだけでも充分ですから」
「なんでそんなに強いんだよ…!」
「…強くはないですよ。単に、ぼくは恵まれているんです。いつも傍に先生やトユカがいてくれる。支えられているから、ここにいられるんです」



いつだったか、観沙が不思議なことを言っていた。母を愛している、と。それは今はいない父に対するそれより僅かながら劣る量だけれど、偽りはない、と。
思い出してみれば、観沙は自分よりも遥かに強い人間だった。



「ぼくはいつだって、ピンチになったら最後に誰かが救ってくれる、そんな物語のなかにいます」
「最後に、か」



躰をはなした。月光の海で、少年がひときわ美しい。



「はい。その最後が訪れるまでは、やっぱり1人でがんばるしかないんですけどね」



観沙は力なく微笑んだ。ぎこちないが、かすかに表情も戻ってきている。



「観沙、オレはおまえが救われたあとの物語がみたいよ」
「難しい注文ですね。先生は救ってくれないんですか」
「オレじゃなくて、兎床が救うべきだろ。…そしたらオレは、」
「…?」



そしたらオレは、














救われた青い鳥がもう二度と落ちないように、守ってやるよ。








090805

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