ここからは、綺麗なものがよく見える。



「春の匂いがたなびく、ねえ…」



屋上にながれる心地よい風に包まれ、貴嵯はそう独りごちた。声を発したせいで、つい数分前まで職員室のデスクにつっぷしていたはずの自分が何故屋上に座り込んでいるのかを思い出す。
簡易的な花見でストレス発散してはいかがですか、と同僚の神志那に勧められたときに聞いた科白だった。春の匂いがたなびく場所ですよ、と。



「間違っちゃいねえけど…」



どこのクラスかはわからないが、体育の授業中らしい。眼下に広がる校庭から耳に馴染む喧噪が遠く響いていた。校門から続く桜並木が風に揺れて、淡い花びらが散る。澄み渡る快晴。



「なんだかなぁ。…センチメンタルに陥りそうだ」



この時期は、あまりいい思い出がない。
ポケットに手を入れ、煙草を取り出す。セブンスターのパッケージをみた途端、貴嵯の脳裏に過ぎったのは、かつて愛したひととの約束だった。



「おいおい…ほんとにセンチメンタルかよ…ったく、勘弁してくれ」



一本を銜えて、ジッポで灯す。先輩ごめん、と呟いたのは擬似的な免罪符だ。
紫煙を春風に織り交ぜて、貴嵯は少しだけ昔の自分を考える。教師になると誓ったあの頃を。



「ま、オレは幸せ者なんだろうな。あんたに比べたら」



全部あきらめるしかなかった、あんたと比べてもいいのなら。
煙を吸い込む。常々、依存する対象は毒でもいいと思っていた。端からたいした価値もない自分を蝕まれようと構わない。
春の屋上から俯瞰する景色は、薄汚れた灰色の大人が視るにはもったいないほど美しかった。唐突に正午を報せるチャイムが鳴り、校庭からまばらに子供が減っていく。
今日、残っている貴嵯の担当授業は6限目だけだ。思えば退屈な1日だった。本来こういう手の空いたときにこなすべき雑務については考えないこととして。


ざわめく桜が貴嵯のところまで花びらを漂わせてきた。フェンスを支えるコンクリートに舞い落ちたそれを摘んで空に翳した瞬間、不意に聞き覚えのある声がふたり分、貴嵯の耳に届く。怪訝な顔で屋上の入り口を見る。と、ちょうど重く錆びた扉が開くところだった。



「あ」



中学生とはいえ、まだ子供だ。唐突にあげる声のボリュームが大きい。



「げ。貴嵯だ」
「へ?先生がいるの?」



兎床が扉をしっかりと開け、次いで観沙が入ってくる。どうやら先客がいるとは思っていなかった様だ。兎床は露骨に厭そうな顔をし、観沙は後ろで小さくなっている。それから無言でなにかやり取りをしてからこちらに近づいてきた。観沙の表情を見るに、たぶん兎床を制止しようとしたのだろう。うまくいかなかったらしいが。



「なんでここにいるんだ」



開口一番、失礼なのは兎床。



「おまえなぁ…。そりゃこっちの台詞だ。なんでおまえらここに来てるんだよ」



呆れて貴嵯がそう返すと、観沙が代弁した。



「すみません。生徒立ち入り禁止なのはわかっていたんですけど…」
「昼飯を食べようかと思って。桜も見頃だし。ちょっとくらい大目に見てくれ」



銜えていた煙草を手にあずける。だめだ、と言うべきなのだろう。が、鍵をかけわすれていた自分の不注意もあって、頭ごなしにそう言う気になれなかった。



「あの、キサ先生…ぼくたち戻りますから…」



観沙が落ち着いてそう提案すると、兎床のほうが慌てて観沙の顔を見た。



「ミスナ…俺は、」
「だってそういうわけにはいかないよ、トユカ」



互いが互いの考えを読んで、流れる会話。貴嵯は思わず苦笑した。



「いや、観沙。いいよ、入ってきたもんは仕方ない。オレが責任とってやるから、おまえらの自由にしろ」



え、と表情が輝く。兎床は短く感謝の意を表してから観沙の手をとってしばらくはしゃいでいた。



「平和だなー…おまえら」



小さくこぼした言葉は、誰の耳にも入らない。かえってそのほうが、都合が良かった。
子供達を屋上にいれたこと、神志那にばれたらどうしようか。いくつか言い訳はみつかったが、どれも使い古した常套句ばかりでつまらなかった。相手の反応をみて決めよう、と結論づける。どうせ言わなきゃばれやしないさ。
日射しのなかで指先まで温まって、眠気がゆっくりと這入りこんできた。指に持ったままだった煙草が僅かに短くなっている。ひといき肺におしこめてから火を消し、携帯灰皿にねじ込む。
重い目蓋の隙間から、座った2人の姿を覗った。桜色の、綺麗な光景だった。












白熱灯がまばゆい。ぼやける視界のなかで、誰かが膝を抱えていた。切なくて、どうしようもなくて。胸が軋む。約束しよう、破らないよね、きっと。あの人の悪い癖だった。何でもすぐ約束にして結びつけてしまう、脆い人。声をかけようとしたそのとき、どこか遠くから、重なるように自分が呼ばれる。



「…キサ先生。せんせい、起きて」



ひっぱられるように意識が作りあげられて、目蓋を開くと夢の形は崩れた。視界に観沙の顔が映って、ようやく白熱灯などない太陽の下だと気付く。



「ぁあ…。オレ…どれくらい寝てたんだ」
「10分くらいだと思いますよ。安心してください。まだ昼休みです」



にっこりと微笑を浮かべながら、観沙は貴嵯に触れていた手を離した。



「揺さぶっても起きないから、むしろぼくが心配しました」



棘のない物言いが、寝起きの頭へ滑らかに入る。トユカはあそこです、と広い屋上の隅を指さし、観沙はしばらく嬉しそうに桜の姿を愛でる兎床を見つめていた。それから貴嵯に振り向いて困った風に目を細める。



「トユカが桜をみるのに忙しいから、ぼくだけ退屈になってしまって」



それで先生に構ってほしかったんです。
続けられた言葉を聞いて、貴嵯は穏やかに頷いた。自分の隣を顎で示す。言外に伝わったのか、観沙はそこに腰掛けた。



「春だなー」



兎床と桜と空を交互にみて、ついわかりきったことを口にする。



「そうですねー…、しあわせな春です」
「しあわせな春、か?」
「はい。しあわせだと思いますよ」
「どうしてだよ」



貴嵯の疑問に、観沙は唇を動かそうとして、一瞬とまった。言おうとしたことを、考え直している。
ふと、こいつはこうやって聡い選択に溺れているんだな、と貴嵯は思った。自分が知っているなかでも、珍しいほど子供らしくない子供だ。



「今は、足りないんです」
「足りない?」
「ぼくにとって当たり前のピースが、足りていないんです。すこし遠いところに、出張だそうで」



わかる気がした。観沙にとって“当たり前のピース”というのは、辛苦の根源たる、狂った母親だ。
観沙はつい最近まで、その彼女のもとを離れて祖母と暮らしていた。だがその祖母も逝去してからは再び、母と家政婦との生活。ピースのそろった環境で、観沙は確実に疲れていた。



「出張か…」



仕事だけでなく、自らの母が亡くなったことで親戚にも色々と報告することがあるのだろう。束の間、ピースの欠けた生活が春にめぐってきたらしい。観沙は自虐的に笑った。だからしあわせの春なんです。と。



「トユカに、口添えしたんですね」
「ん?…ああ、まあな」



兎床は何も知らない。観沙が母子家庭で、しかし母親とあまりうまくいっていないらしい、それくらいしか。貴嵯から云うのは野暮だ。だから詳しくは説明せず、亡くなった観沙の祖母のことと、観沙の傍にいてやれよという程度のアドバイスを与えた。



「なあ観沙」
「はい、何でしょう」
「云わないのか、あいつに」



横目で観沙を捉えた。冷たく美しい、無表情だった。



「云うべきでしょうか」



意見を求めているトーンではなかった。どちらかといえば、貴嵯の言葉を否定するような音色。



「あいつのところも、父子家庭だ。それなりに、深く感じるところもあるだろ」
「そうかな…。ぼくは彼が…。あたたかい彼が、こわいんです」



冷たいぼくの心がふれて、熱を奪ってしまわないかと。
囁いた観沙の肩がふるえていた。



「いつまでも隠したままで、おまえが壊れないならいいんだよ」



返答はない。



「誰が何を言おうと、おまえは観沙青だ。オレは否定しないよ。おまえの父親がつけてくれた青い名前を」



俯いている、観沙に手をのばす。髪を撫でる。すると観沙ではなく、貴嵯自身が落ち着くような気がした。



「あしたの、」



途切れてつながる線のように、観沙が唇を動かした。貴嵯が手を離すと、人形じみた翠玉の瞳がまっすぐ貴嵯を見上げる。



「明日のぼくはどこにいるんでしょうか」



刹那、貴嵯は桜風とともに言葉をうしなう。昔どこかで聴いたあの人と同じ声。面影が、雰囲気が似ていた。否、まさかそんなはずはない。赤の他人だ。



「観沙、みすな…、おまえは」



どこに?違う、あのときもそうだった。判っていたんだ、気付いていたんだ。先輩がどこにいるかなんて。



「なあー、そろそろ戻った方がいいんじゃないのかー?」



駆け寄ってくる兎床の声で目が醒めた。観沙が貴嵯の思考を捕らえたまま妖艶に微笑む。チャイムが鳴り響くと魔法がとけたのか、観沙は何事もなかったかのように、近づいてくる兎床に手を振った。立ち上がり、惚けている貴嵯に一瞥くれて、小鳥のように謳う。



「やっぱり、なんでもないです。忘れて下さい、先生」



兎床と観沙が連れだって扉の向こうに消えるのを、貴嵯はぼんやりと見送った。桜と屋上の空に対してかすかに混乱を告げる。溜息まじりの気まぐれだった。



「…忘れてやるよ。悪ガキの戯言なんてな」



春の匂いがたなびいて、花の舞い散る4月を憂う。














(それは小鳥が羽搏いたせい)



(090409)





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