「生温い」


ぼたっ、


「なまぬるい?」


ぼつ、ぼとっ


「そ、生温いんだよ。ミスナの、俺に対しての友情は生温い」


トユカの悪魔のように人間を惑わせる整った綺麗な顔から、頭から被った水道水が滴り落ちる。ぼくが、水も滴るいい男っていうのはトユカのことをいっているに違いないと考えながら“観沙 青”と端に小さく書かれたタオルを差し出すと、トユカはさんきゅ、と爽やかにタオルを取った。


「そうかなぁ」
「そうなんだ」


だ、の辺りを妙に強調してトユカはぼくにタオルを戻した。今度はトユカが“兎床 赫夜”と書かれたプレートキーホルダーのぶら下がる水筒をぼくに差し出す。ぼくは受け取るのと同時に、これって間接キスじゃないのかなと一瞬躊躇いを覚えた。勿論そんなの男同士なんだから気にしていたらどうしようもない。
ぼくは水筒の中身を喉に流し込んでから、ふとあることを思い出した。


「トユカさ、」
「ん」
「一週間前、ぼくの名前見て、女みたいって言っただろ」


トユカはまだ濡れている髪をきつい陽射しに晒しながら、ほんの少し拗ねた顔をする。


「だって、そのまま読んだらミサだ」
「下の名前もセイで中性的だしね。でもそれを云うとトユカだって下の名前はカグヤじゃないか」
「俺はいいんだよ。なんかこう…苗字と1セットだから」
「意味不明だよそれ。それにしたって吃驚したよなぁ。一週間前転校してきた時、言ったこと憶えてる?」
「『そこの女みたいな名前のやつ、今日から俺の友達になるか。なるな、よし、なれ』って言ったな俺」


トユカは一言一句違えることなくあの時の言葉を繰り返した。よく憶えてますね。皮肉めいた口調で言うと、記憶力には自身がある、と胸を張る。褒めてもいないのに。都合の悪い事は聴いていなくとも聞こえているフリをする癖を持つまったく不思議な奴だった。ぼくはそれが可笑しくて、また一週間前のことを思い出す。



トユカはあまりにも美しかった。教室に入ってきた転入生に、学級中の視線が集まり、どよめいたのをぼくは今でも鮮やかに記憶している。天使みたい、お人形みたい、あいつ男だよな。そんな囁きが飛び交う中で、ぼくだけがトユカを悪魔めいていると見抜いた。勿論、皆と同様にトユカに心を奪われていたのは認める。
トユカ熱は一瞬では冷め遣らず、女子だけでなく男子までもがトユカに魅かれていった。サバサバした男子らしい性格がよかったのかもしれない。
一週間経った今も、相変わらずトユカはクラスのアイドルで、ぼくはその付き人みたいに見られていた。トユカに問えば、ミスナは歴とした友達だと言ってくれる。それだけで、ぼくは充分だった。


「それで、ミスナの名前がどうかしたのか?」


トユカの声でぼくはハッと我に帰る。ぼくの名前がどうしたんだっけ。不意に引き戻された現実のなかでぼくは思考のピントがずれていくのを感じていた。たしかトユカが最初に、ぼくのトユカに対する友情が生温いと言って、


「生温くなんかないよ」
「なにが?」


ぼくは「え、」と言葉を水のように零して、トユカを見た。それから呆れ果てて続きを飲み込む。その代わりに文句を言った。


「トユカが言ったんだろ。ぼくのトユカに対する友情が生温い、って」
「ああ、それか」
「だからさ、生温くなんかないよ。ぼくの、トユカに対する友情」
「その心は?」
「…何ソレ、笑点…?」
「そうだけど。そんなのはいいから、続き言えよ」


理不尽な言われように思わず「トユカが言ったんじゃないか」と愚痴を投げつけた。トユカは飄々とした顔で「そうだな」と跳ね返してくるので、また聴いてるフリをしているのがよくわかった。ぼくはあきらめて催促されたさっきの続きを、半分やけくそになりながら唇にのせる。


「ぼくは、トユカが好きだ。だから、生温くなんかない」


ぴちゃんっ。
緩くひねられた蛇口から水が滴る音が、屋外にも関わらずよく響いた。トユカは面食らった顔をして、静止している。普通の男子がそんな顔をするとアホ面と言われそうなくらいなのだが、トユカがすると何故か上品だ。
ぼくは、今さっき自分が発した言葉がどんなものかをよくよく考えて、気持ち悪いくらい顔が熱くなる。


「あ、いや…そういう意味じゃ、」


取り繕う、焦り。確かに、好きだ。友情なのかよくわからないくらい好きだ。それはトユカが綺麗だからとか、女みたいだからとかそういうのじゃないという確信はある。でも、自分でもよく解らないというのが、現実だった。だからそういう意味じゃない、というのも嘘じゃない。


「それでいい、」
「へ?」


ぼくが間抜けな声をあげるのと一緒に、トユカが顔を上げた。ぼくは、トユカの強い眼差しに息を呑む。


「そういう意味で、いい」


トユカの透き通った声が、脳内に心地よく広がった。それから滲み込み、ぼくにちょっとしたパニックを齎す。そういう意味って?ぼくが思っていた、とおりでいいということ?だけどそれって、変じゃないのか。ぼくがトユカに好きと言った。トユカはそれでいいと。何だこれ。どうしようもない、溢れそうな嬉しさと切なさと数え切れない色々がぼくのなかにある。たぶん、胸のあたり。


「昼休み、終る前に教室戻るぞミスナ」
「あ、うん。って、ちょっと待ってよ、トユカっ」


広い歩幅で歩き出したトユカの背中を追いかける。ぼくの耳に、誰か上手な女子が弾いているらしいピアノの旋律が届いた。ぼくにも聞き覚えのあるその曲は、そろそろ終る頃。ああ、そうか。ぼくはトユカの後姿を半歩後ろから見つめて思う。ぼくはどうやら、トユカには勝てないんだな。ただの日常でこんな恋をするなんて、一週間前まで考えもしなかった。風に乗って、開いた窓からピアノが歌った。終わりの和音が、伸びやかに鳴る。記憶が正しければこの曲の最後、楽譜に記されているのはフェルマータ。程よく伸ばして、適当な長さで。ぼくらはそうやって一日を過ごしていく。自由な距離で、ぼくはトユカをトユカはぼくを思えばいい。不意に振り向いたトユカの名前を、ぼくはひどく愛しい気持ちで叫んだ。


















時系列的にはアルデバランが2話目でフェルマータが1話。071106 






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