「しというのは、」


死と言うのは。向かい側に座ったトユカが、不意に呪文のような言葉を発した。ぼくは、何事かと首をもたげ、本能のままに「え」とだけ言う。
トユカは神妙な面持ちで、自分の前髪を煩そうに払った。その動作がいちいち輝いていて、こいつはどうして、ほんとうに人間なんだろうかとぼくに思わせる。その天使のようなトユカが、ぼくに呪文を言うときは、大概長い話が始まるのだ。面倒臭い、話が。
そうした経験を心得ていながら、ぼくは逃げなかった。何よりトユカから借りたノートをさっさと写して提出しなければならないし、逃げたって追いかけられるに決まっている。


「死と言うのは、誰もしらないことだ。知識として存在しない。だから本当の命の終りをしっている人間なんて存在しないんだ」


予想に反することなく、トユカは語りだした。心底、喋ることが厭だとでも言いた気な顔をしながら。ぼくはそれがいつも不思議に思えてならないのだが、トユカに話すと、そんなことはないと否定されて終わる。不毛なやりとりになるのだった。だからぼくは、その不思議な気持ちを抑え込んで毎回こうしてトユカの話を聴く。半分理解出来ず、脳に入る事なく落ちていくのだけれど。


「それはまた、ぼくでもわかる事実だね」


ぼくが適当に相槌を打つと、トユカは眉一つ動かさずに頷いた。普通だったらこういう気の無い相槌に怒るはずなのに、トユカはちっとも怒らない。何故なら聴こえていないから。自分に都合の悪い事は聴こえない、というか聞こえないまま聴こえているフリをする。そんな人間だった。


「でも、命の終りを知っている人はいる」
「矛盾してるよトユカ」
「我が身をもって知った人はなかなか居ずとも、親しい人を無くした人というのは無限にいるものだ」
「そうだね」
「けれど、その中でも“本当”に程近い命の終りをしっている人というのは、思春期に家族や、恋人や、親族や…とにかく大切な人を無くした人だと思う」


トユカがぼくの顔色を窺っているのが判った。そのトユカの言う、本当に程近い命の終りをしっている人、がぼくだからか。


「それで?」


平然を装ってぼくが先を促すと、トユカは少し遠慮がちにまた口を開いた。


「生き仏を見るところから始まり、葬式、お通夜、火葬、遺骨拾い・・すべてを経験して、始めて人の死がわかる。幼すぎれば遺骨を拾う事も許されないし、大人であれば精神的に成熟しすぎているだろう?思春期の頃に、死を感じる事が大切なんだ」


息を吸ってゆっくりトユカはぼくに手を伸ばした。握られた手にぼくは驚きと切なさの入り混じった複雑な気持ちになる。
トユカは一体何が言いたいのか。分かるようで、解らない。


「ぼくの好きな歌にね、」


唐突にぼくが相槌とは違う言葉を落として、トユカは少しだけ目を見開いた。


「こういう一節があるんだ」


ぼくは祖母のことを思い出して、堪える為に顔を顰めた。トユカの、ぼくの手を握る力が強くなる。


「“人は、皆独りで死んでいくけれど、独りで生きていくことは出来ない”って。素敵だろう?本当のことをこんなに美しい声(ことば)で伝えてくるなんて、ぼくには出来ないしきっとトユカにも出来ない」


理科室の窓から入った風が、ノートを翻した。理科係のトユカが、キサ先生から借りたという薄汚れた白衣から、科学薬品の匂いが漂う。ぼくは悲しみも一瞬忘れて、トユカの白衣姿にまた見惚れてしまった。やっぱり、こいつは天使じゃなくて悪魔か何かだ。人間をかどわかす容姿を持ってるんだから。


「貴嵯が、言ってたんだけど」


空いた手で折角ぼくが綺麗にした髪をぼさぼさと掻き乱しながらトユカが言葉を投げた。ぼくは髪のことも呼び方のことにも溜め息を吐く。


「先生の名前を呼び捨てするのはだめだよ、トユカ」
「貴嵯は先生じゃない。友達みたいなやつだ」
「それもどうかと思う。それで、キサ先生がどうしたの」


うう。トユカが唸った。そこでぼくは、声を洩らさないように唇の端をつりあげる。唸るのは、トユカが照れている時の癖だ。どうにかしてぼくを慰めようとしているんだろう。


「俺が、ミスナのそばにいると、良いんだって」


ぼそぼそとトユカが零した言葉に、ぼくは目を見張った。それから抑えきれない嬉しさに笑みが浮かぶ。普段はトユカの方が強くて、ぼくは付いて行くだけなのに。今回はどうやら立場が逆転しているらしい。
顔を伏せ隠したトユカに届け、とぼくは幸せを謳った。


「じゃあトユカのそばには、ぼくがいるよ」


絡んだ視線に、トユカも笑う。


「人は独りじゃ生きていけない」
「うん」
「さっきの続きだけど」
「なに?」
「俺が言いたかったのは、こうだ」


深呼吸。トユカの唇の動きで、空気が解けていく。


「命の終りをしっている人は、やさしい心をしている。ミスナみたいに」


カーテンがはためく。風に抑えの無いページが捲られた。ぼくの髪も、トユカの髪もさわさわと揺れる。その時ぼくは、たしかに綺麗な声(ことば)に包まれて、ほんとうの愛情を感じた。


「、トユカ」
「どうした?」


ぼくは立ち上がって、テーブルの上に乗り出す。トユカの唇に、ぼくはほんの一瞬だけ自分の唇を重ねた。陽の当たらない理科室のなかでぼくらは今、星のように輝く夢をたゆたっている。温もりが褪めないよう、ノートに写された牡牛座のアルデバランに祈りながら。


















071106 



本文歌詞参考:坂本真綾「ユッカ」(敬称略)
"手渡された悲しみ
それは乗り越えるためにあると空見上げ思う

誰も一人で死んでゆくけど
一人で生きてゆけない
いつか誰かと僕も愛しあうだろう"

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