貴嵯が職員室に入ると、貴嵯のデスクの前に立っていた藤堂佐理の顔は「やっときたか」という表情一色になった。次の時間に授業の入っていない教師は数人だけなのか、職員室の人口密度は低い。


「お待たせ、サリーちゃん」


遅れた理由を質される前に有耶無耶にしよう、と貴嵯は敢えて禁句を口にしたのだが、これが覿面だった。むしろ覿面すぎた。物凄い形相で佐理に睨まれたまま、貴嵯はわざとらしく反省のポーズをとる。


「まあ落ち着けよ。悪かった」
「宏孝先生…、生徒だったら殴ってますよ…」
「おうおう、過激な生徒会長だこと。下手すると停学処分だぞー」


しかもここ職員室だぞー。という貴嵯の言葉は無視して、佐理は書類に目を通し始めた。貴嵯が渡すはずだった書類を、どうやら他の教師から先に受け取ったらしい。
作業は生徒会室に行ってやれよ、と言うべきか貴嵯は悩んだが、生徒会長が職員室に長居していても他の教師は気にとめる風ではないし、まあいいかと考え直す。自分も椅子に座り、さてプリントの山に目を通そうかというタイミング。


「先生」


佐理に呼ばれて、何か書類に不備が有ったのかと思い、視線をプリントの山から離した。


「何」
「忽那木珀亜はなんのつもりですか」


椅子ごと倒れそうになった。あくまで気持ちの上でだが。


「なんのつもり、って…何だ。どういう意味だそれ」
「あいつはすべて謎なんですよ。一体なんのつもりで3年から編入してきたのか。前の学校で問題を起こしたわけでもないらしい。では何故。まったく何がしたいのかわからない。先生なら少しはわかるのかと思って訊いたんですが、わかりませんか」
「知らねえな」


言葉に偽りはない。含むところは、多少ある。


「ちなみに、藤堂はどう思う」


誤魔化すように話を振った。佐理はつまらなそうな顔をして答える。


「観沙に関係があると思います」


貴嵯の指からペンがすべり落ちた。かちゃん、と音がしてから慌てたようにペンを拾う。
佐理は呆れたのか、溜息をついた。


「宏孝先生……、俺の口の堅さを信用してくれるのはいいんですけど、あいつの名前出しただけでここまで動揺するってどういうことですか。よくもまあそんなんで隠せてますね。噂になったらどうするんですか」
「いや……うん、…すまん。外では隠せるんだが、事情を知ってる人間相手だとつい…な」


佐理には藤堂家経由で、観沙と貴嵯の事情が伝わっている。
生徒会長ということもあるし、ある意味では第二の監視役だった。佐理自身は観沙のことを「どうでもいいけど、少なくとも好きではない部類の人間」と評しているし、仕事として受け止めているらしい。
その上、持ち前の勘の鋭さで、家の事情は抜きにしても貴嵯は観沙青を特別視していることを諒解していた。


「というか俺が言ったのはあの鬱陶しい坊っちゃんじゃなくて、観沙家のことなんですけど」
「ああ…、王星グループがどうたらって話か」


観沙家が興し、当主がグループの総帥である王星グループ。その傘下第2位の忽那木家が次期にグループ総帥となる。そんな噂が流れている。事実かどうかは知らない。が、


「珀亜には関係ないだろ。三男だぞ」


貴嵯の否定を、佐理はすんなりと認めた。


「そうですね。あそこには堅物で優秀な長男がいることだし、女遊びの激しい次男だって頭は悪くない。三男にはお鉢が回らないでしょう」
「おい。じゃあさっきの発言は何なんだよ…。あいつが家での役割がないからやさぐれてこっちに来たとでも言うのか?」


佐理は肩を竦めた。


「なんでしょうね?違うと思いますけど」
「おまえなあ……」


貴嵯の言葉を遮るように佐理が手を挙げた。


「俺はね、先生。あいつには裏の裏の裏があるんじゃないかと思います」


手をおろして書類をめくり、佐理は言葉を続けた。


「実際には今の観沙家ご当主様が降りても、次は忽那木家の現当主と観沙家の長男がツートップ。その2人が使えなくなれば忽那木家の長男と観沙長男家の誰かが候補にあがる、って流れでしょう」
「…う…混乱する…オレはあのへんの家系図いまいち把握できてないんだけど」
「じゃあ書きますから、ペンと要らない紙ください」
「大雑把だなー…知らない人が見たら首かしげるぞ」
「先生が大体わかればそれでいいんですよ」


佐理が書いた青の母親の位置には×印が書き込まれている。貴嵯はそれを見て、言い知れない気持ちになった。


「それで?」


貴嵯は佐理に先を促した。
わざわざ口にするような事ではない。ただ自分が悲しいだけで。


「世間一般では、このタイミングで青ぼっちゃんに近づいてきた珀亜を見て、跡継ぎ問題のことを想像する。これだけ噂になっていれば、誰しもね。俺はだからこのタイミングなんじゃないかなと」


佐理がすらすらと喋るのを聞いて、貴嵯は感心するしかなかった。どうでもいい、と言いながらも色々と考えているらしい。さすが有能な生徒会長である。


「何かのカモフラージュのため?あいつは何を隠したいんだ?」
「あくまで何となくの予想ですけど……、本当はたいした理由があるわけでもない、とか」


佐理と貴嵯は顔を見合わせた。


「有り得る、と言えなくも無いが、なんとなく来たと言うには犠牲が大きすぎるだろ。この時期に学校を変えるなんて忽那木家がすんなり認めるわけがねえ」


貴嵯の指摘に佐理がうなずく。


「だから俺が言ってるのは家の理由じゃなくて珀亜本人の個人的な理由なんじゃないか、と」
「それが裏の裏の裏…か」
「…裏の裏かもしれないですね。もうひとつ深い裏は、俺にも量りかねる」


佐理の言葉を最後に、沈黙が訪れた。
貴嵯はペンを置いて、ひとつ息をこぼす。


「(せめてオレがあいつと親しければ、考えてる事を推測できたかもしれねえけど……)」


貴嵯と珀亜をほとんど知らない。親族会には結局数えるほどしか参加しなかったし、貴嵯の家と忽那木の家では格が違いすぎるために、それ以外の場では接点がなかった。ただ、青には黙っていたものの、貴嵯家から勘当された後も、貴嵯は親族会に何回か足を運んでいる。
青を案じてつい、青がよくひとりで遊んでいた裏庭をこっそり覗く……という問題のある行動だったが、そのときに青と一緒に行動している珀亜の姿を見た。
遠目に見た限りでは、ごくごくふつうに友達同士で遊んでいるように見えたが、実際にはどうだったのだろう。そういえば、一度だけ珀亜と会話したことがあった。ぼんやりとした記憶が少しずつ戻っていく。




『何してるの』


そうだ、あの時はたしか、観沙が泣いてどこかへ走っていくのを見た。何年前のことだったか。あれは珀亜が、何をしたのだろう。こっそり見ていたオレも観沙が泣いたのに動揺して物音をたて、珀亜に見つかった。


「あ、っと……ごきげんよう、忽那木のぼっちゃん」


オレが苦笑いを浮かべて、珀亜はオレを睨んだ。


「お兄さん、確か貴嵯の家を勘当されたんじゃなかった?」
「よく覚えてたな、オレの顔なんて」
「その品のない格好でこんなところに隠れてるなんて、どうせ傍系の人間だろ。よく覚えてるよ、この間の親族会で貴方の両親が泣いて頭を下げてるのを見たんだ。かわいそうに、よく似てる」


華奢な見た目と裏腹にひどく口が悪かった。敵意を全身からオレにぶつけてくる。


「品がない物言いで長々とどうも。青とはえらい違いだな、忽那木」


オレが言い終わるより前に、珀亜の顔色がみるみる変わって、敵意が憎悪に変わるのがわかった。


「……ッ、うるさい黙れ!!お前に、お前なんかに何がわかるんだ……ッ!」


触れてはいけない核心に触れたのだと一瞬で理解できた。激昂する幼い少年は痛々しくて、家や教育や憎悪に縛られるこの家系に生まれた少年に対する気の毒さが胸に広がった。


「悪かった。今のは言い過ぎた。謝るから落ち着けよ」
「……貴方は勘当された人間だよ。ここに来る資格がない。おれが警備員を呼ぶ前に帰ったら?」
「ああ、帰る前に確認したい。今おまえ、青に何をした?」
「は?貴方に何の関係があるの?」
「いいから答えろ。内容によっちゃあオレはおまえを許さない」
「なんだよそれ、お姫様を守る騎士きどり?」
「どうとでも言え」
「ふーん……」


珀亜が瞳を細め、若草の憎悪の色が濃くなる。それから一転して愉快そうに口を開いた。


「おれは事実を言っただけだよ」
「事実?」
「これ以上は教えない」


いつの間に呼んだのか、あるいはただ嗅ぎつかれただけなのか、警備員が遠くに姿を現す。


「ほら、早く帰ったほうがいいと思うよ」
「おまえ……」


ぞっとするほど綺麗な笑みが、幼い少年から向けられる。その顔がどこか青の面影を宿していて、オレを怯ませた。


「おれ、憶えておくから。気まぐれな同情なんかでナイトをするお兄さんの事。ばかげた事は早くやめたほうがいいよ、すごく目障りだからさ。一刻も早く消えて。青といい貴方といい、不愉快だよ」


言いながら珀亜は警備員が駆け寄ってくる方へと歩いていく。


「さようならファントム。警備員は誤魔化しておいてあげる」




それが最初で最後だった。そのあとオレが珀亜を見かけたのは親族会で観沙の母親が起こしたあの事件の日。表沙汰にはならなかった、あの現場で珀亜がそれを見ているのを、オレが見て。


「先生、宏孝先生」


目の前でプリントをばさっと叩かれて、記憶の海から浮上する。
佐理が不機嫌そうに眉をつりあげていた。


「何をぼんやりしてるんですか、勤務中でしょう。私情や考え事は家に置いてきて下さい」
「……ごもっとも」
「書類はもう目を通したんで、帰っていいですか」
「ああ、もう放課後か?」
「馬鹿言わないで下さい。昼休みが終わって、掃除の時間に突入してます。生徒会長が掃除をさぼるわけにいかないんで、退室していいですかと訊いてるんです」
「掃除をさぼって姉様に怒られたら一大事だもんなあ」
「いちいち癪に障る言い方をしないで下さい」
「よーし、帰っていいぞサリーちゃん」
「宏孝先生、放課後オレと剣道場で手合わせしましょう。木刀で」
「殺す気か!」


揉めつつも佐理が退室すると、貴嵯はプリントの山を一瞥してため息を吐いた。あの事件は思い返すのが嫌だ。できることなら仕事に埋没して、考え事から逃げよう、とペンを持つ。


「(それにしても、珀亜の目的は何だ……?)」


ああ、できることなら青を傷つけないでくれ。
それは無理だとわかっていながらも、そう願わずにはいられなかった。

















(alternate)

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